さて、今日は伯固じゃな、字は不明、生没年は・・・実は191年はいない可能性があるんじゃよ。 この人物の紹介をしていくとしようかのう。
人物紹介
後漢書高句麗伝では伯固は132年頃には王になっておる、しかも179年に亡くなって代替わりしている可能性もあるんじゃが、一応魏書の東夷伝では公孫度 が海東に勢力を伸ばすと大加(高句麗の豪族のようなものか?)の優居と主簿の然人を送って公孫度に力添えをし、富山の賊を打ち破ったとある。
この時期が良く分からんのじゃよ。史書には公孫度以前には度々遼東郡を侵犯していたが、169年に当時の玄菟郡太守の耿臨に討伐され、降伏しておる。そして172年~178年の間に伯固は願い出て玄菟郡の支配下に入っておる。
その後公孫度が海東に勢力を伸ばすと、公孫度に力添えをしている、とあるのぢゃ。それが172~178年以降なのはほぼ確実と思うのじゃが、それが何時頃かが分からんのじゃな。とは言え、高句麗王とも協調関係を持っていた、と言うことでここでは登録しておる。さて能力の表示ぢゃ。今回も天舞~三国志正史~とワシ評価の二つじゃ。
能力評価
元々は遼東に侵入して暴れておったので軍事能力を高めとしておるぞい。先見の明もあると思うので知謀もそれなりじゃな。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回の人物は難しかったのう。資料によって微妙に年代が違うのじゃからな。
何でこんなに違うのでしょうか。
うむ、実は伯固の子供が2人おるのじゃが、兄の方は不肖の息子と言うことで王位を継げなかったとあるのじゃが、王位を継いだ、と言う資料もあるのじゃ。
何となくじゃがこの辺りの兄が王位を継いだかもしれない期間(179~197)が空白となり、資料によって情報が違ってきておるんじゃないかのう。
最初は伯固を入れずに不肖の息子と言われた抜奇を入れようかと思ったのじゃが、天舞さんの方に伯固が出てきておったので、一応載せておいたのじゃ。
師匠の評価とはだいぶ違いますよね。
うむ、天舞さんの方は軍事面がかなり低い、が元々は遼東を軍を率いて侵犯していたことから、ワシは軍事面も評価できる、と判断したのじゃ。まあこの辺りは情報が少ないからブレ易いのは確かじゃろうな。
さて、もうそろそろ191年ごろの公孫度勢力の評価は終わるぞい。何だかんだで結構人が揃っておるのう。幽州は公孫度、公孫瓚、劉虞の争いになるじゃろう、彼等も近いうちに紹介するぞい。
師匠、公孫度勢力の紹介が終わったら、一度情報をまとめましょう。
そうじゃな、補足情報もあることじゃから、そうさせてもらおうか、ではまたの。
またみてくださいね!