さて、今日から北方の雄、公孫瓚の勢力紹介を行うぞい。
字は伯珪。199年に袁紹との戦いに敗れ、亡くなっておる。
さて、彼のようにある程度有名な武将の場合、ありきたりのことを書いてもあまりインパクトはないかのう。まあ、ポイントは抑えていくかいの。
人物紹介
若き日の公孫瓚
まず彼は容姿が美しく、大声の持ち主じゃった。イケメンとは羨ましいのう。
そして自分の上司が罪を犯して日南(交州、今のベトナム辺りじゃな)へ流される時、自らも臣下として一緒に付いていっているのじゃよ。もし上司が赦免されなければ、後の北方の雄としての威名も、あの悲しい最後もなかったかもしれんのう。
異民族との戦い
ある時数十騎の兵で巡察の途中、数百騎の鮮卑族と遭遇。普通この兵力差でしかも騎馬の扱いに長けた鮮卑族と戦うなんて無謀そのものぢゃ。じゃが公孫瓚は決死の覚悟で自ら矛を振るい、敵数十騎を打倒して見事この危地を凌いだんじゃ。これにより彼の武名は一気に上がり、異民族も境界を越えて侵入はしてこなくなったんじゃな。
その後張純と言う人物が反乱を起こした際は、配下を率いて彼を追撃し、大きな手柄を立てておる。ただ、その後烏丸が幽州、冀州、青州、徐州などを荒らしまわっておるが、これは防ぎきれなかったようじゃ。恐らく州を超えての行動には制限が付くため追いきれんかったのかのう。
劉虞とのいさかい
そしてその対策のために送られたのが劉虞と言う人物ぢゃ。劉虞は異民族との融和政策を行っておったが、異民族討つべし、の公孫瓚とは折り合いが悪くてのう、最後は互いに争い公孫瓚が勝利するが、かなり後味の悪い形で劉虞を殺害しておる。演義では描かれていないが、彼のダークな一面じゃな。
袁紹との争いの果てに
そして同じころ袁紹との戦いにも突入しておる。勝ったり負けたりしているが、易京で数年持ちこたえていることはなかなか見事じゃと思う。しかし援軍の当てのない籠城戦とは公孫瓚の気持ちはどうじゃったんじゃろうなあ。最後は城を落とされ、自ら命を絶った、と言う話ぢゃ。ほいじゃ、簡単な戦績を書こうかの。
対鮮卑族 ◎
対張純 ◎
対烏丸 △
対黄巾 ◎(青・徐州の黄巾賊討伐)
対袁紹 〇(界橋の前の戦い)
対劉虞 ◎(劉虞殺害)
対袁紹 〇(数年に渡る籠城戦)
対袁紹 ×(199年の易京攻略・ココで陥落し、自殺)
10戦 6勝3敗1分
およそ以上になるかのう。籠城戦とか界橋の前の戦いとか一つに組み込んでも良いんじゃが、袁紹が勝てなかった戦いもある、と言うことで別扱いでカウントしておるぞい。さて、恒例の能力評価じゃ。今回は全てのゲームに参戦しておる。まあ彼ぐらいの有名人なら当然じゃな。
能力評価
公孫瓚の能力じゃが、まず白馬義従を従え異民族を畏怖させたこと、青州黄巾賊もあっさりと打ち破った実績から軍事能力を極めて高くしておる。一時は幽・冀・青州と三州にまたがって支配したことから統率も高めの評価じゃな。
政治と知謀は誤った判断がいくつかあり、それが身の破滅に繋がったことから、やや控えめの評価になるかのう。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回から北方の雄、公孫瓚勢力の紹介じゃ。まず一番手は公孫瓚じゃな。
どの評価もおよそ軍事や采配、とか軍事面の評価が高いですね。コーエーさんのは知力や魅力もソコソコあって、結構理想的に見えますね。師匠も軍事や統率は高いですが、知謀や政治はそこまででもないですね。
そうじゃのう、彼自身はそれなりに有能じゃったようじゃが、人を見る目と大事な局面での判断に誤りがあり、それがあれだけ追い詰められる結果となったようじゃからな。劉虞を殺害したのも得策とは言えんかったじゃろう。あれで完全に劉虞配下の武将や兵士を敵対させ、袁紹を強大にさせてしまった。
そう言えば劉虞はどのように殺害されたのですか?後味の悪い、と書いていますが。
うむ、劉虞は劉姓であることからも分かる通り、皇族の一人なんじゃ。そして董卓が献帝を奉戴したのに対抗し、袁紹らが劉虞を新たな皇帝として董卓に対抗しようとしたのじゃよ。もちろん劉虞はそんなこと承知しなかったがの。
じゃが、そこを公孫瓚は追求してきた。「典略」によると劉虞は皇帝になることを断っておったのに「もし貴様に本当に天子になれる資格があるなら、この場で雨を降らせてみろ、天子(皇帝)になる資格があるならそれができるはずだ(できなければ貴様は資格もないのに天子になろうとした大逆人じゃ)」と。
ひええ、無茶苦茶なこと言いますね。当然・・・雨は降らなかったんですよね?
そうじゃ、当時は夏真っ盛り。終日雨も降らず、処刑されたのじゃ。なぶり殺しのような処置に劉虞の気持ちを考えると、ワシもちと心が痛むぞい。この時は劉虞配下の官僚とかも相当処刑されたようじゃな。そして生き残った劉虞配下の武将達は完全に公孫瓚の敵に回ってしまったのじゃよ。
それにしても天子だったら雨を降らせられるってのは、ちょっと変な感じがしますね。
そうじゃな、現代ではそんなことまず不可能と思うのが普通じゃな。じゃが当時は皇帝と言うのは天に選ばれた天の代行者、と見做されておった。じゃから実際に出来る出来ないは別にして、そう言う能力が求められておったのじゃよ。
そして、干ばつや水害、地震などの天災が頻繁に発生する場合、これは皇帝が天の代行者の役割を果たしていない、皇帝失格なんじゃないか、と言う話に繋がっていくのじゃ。英雄はこう言う時に奇跡が起きて雨が降ることがあるかしれんが、それは結果論としての話じゃからな。劉虞にはその奇跡が起きんかった、残念ぢゃ。
ちょっと悲しい話ですね。それにしても戦績を見ると結構負け戦もありますが、強いのですか?
うむ、強いのは間違いなく強い。異民族は中華の兵とは質が違うので、彼らと戦える司令官と言うのは非常に貴重なんじゃ。そして異民族に勝てるぐらいの軍ならば、中華の軍隊相手でも簡単には負けないぐらいの実力がある。実際「英雄記」によると曹操もさんざん苦戦した青州黄巾賊を公孫瓚は散々に打ち破っておるのじゃ、これからも彼の実力の高さは分かってもらえると思うぞい。
じゃから袁紹は公孫瓚を当初非常に恐れ、何とかして懐柔しようとあれやこれやと策を練っておったぐらいじゃ。まあ結局懐柔は無理とあきらめてからは頑張って戦っておるがな。界橋の戦いが192年じゃから、実に7年も戦っておる。それだけ袁紹にとっても強敵じゃった、と言うことじゃな。
師匠もその辺りを評価して軍事を高くした、と言うことですか。
うむ、袁紹に敗れたのも袁紹側に対異民族戦に習熟した武将がおり、それによって同じように打ち破られたまでのことで、彼がいなければもっともつれた可能性は高い。それぐらい脅威であったのは確かじゃからな。ちなみにワシの公孫瓚の軍事の評価じゃが、三国全時代を見渡しても彼の上には10人いるかどうか、と言うぐらいの評価じゃ。こ奴の猛攻をしのぐのは大変じゃぞい。
さて、今日はこれぐらいかのう、次は公孫瓚配下の武将評価を行っていくぞい。ではまたの。
また見てくださいね、それでは!