さて、今回は公孫瓚配下の関靖の紹介ぢゃ。
「英雄記」によると字は士起、太原郡の出身ぢゃ。公孫瓚には長史として仕えておる。長史はいくつかの役割があるが、彼は武器・軍馬を司る役割かのう。199年に袁紹との戦いに敗れ公孫瓚が亡くなった時に、自身も敵陣に突っ込んで戦死しておる。彼の評価はどんなものかちょっと見てみようかのう。
人物紹介
「英雄記」の評価
さて、「英雄記」では彼は元々厳罰主義の酷吏でこびへつらうばかりで長期的な計策を有していなかった、とある。これだけじゃとあまり良い印象は与えんかもしれん。
また袁紹に攻められた公孫瓚が出撃しようとした時も、これを諫めて籠城させるように導いたが、結局これによって公孫瓚は反撃することもできず、敗北してしまっておる。じゃから参謀としてはあまり優秀とは言えんかもしれん。
袁紹陣営におった郭図にちと近いタイプなのかのう。
「漢晋春秋」の記述
じゃが、最後に公孫瓚が亡くなった時のエピソードが「漢晋春秋」に載っておる。これには亡くなった後関靖は「君子は他人を危機に陥れた場合、必ずその人と運命を共にする、今この状況に陥った状況でわし一人生きているわけにはいかん。」と自ら敵陣に突っ込んで戦死しておる。
こびへつらうだけの人間がこのような最期を遂げることはできんと思うのじゃよ。と言うことで続けて能力評価ぢゃ。関靖は三作品とも出演しておる。
能力評価
彼は進言に有効なものはなかったから知謀は低めかもしれんが主君に対する忠は本物じゃったと思う。役職から軍事と政治はそれなりの能力じゃぞい。
雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は関靖じゃな。
英雄記と言う書物と漢晋春秋とでは受ける印象が大分違いますね。何故こんなに違うのですか。
うむ、歴史書と言うのは人の手によるものである以上、どうしても何らかのバイアス、好悪と言う個人の私情と言うものが入り込む余地が出来てしまうのじゃ。そのため人によって評価が大きく変わってしまうのぢゃ。関靖はその良い例じゃろうな。
と言うことは師匠も能力評価とかやっていますが、やはり完全に公平な評価と言うのは無理なのですか。
もちろんそんなことができるとは思っておらん。多分100人おったら100人評価が違うじゃろう。じゃからこれはあくまでも爺版三國志評価と言うことじゃな。まあだからと言って公平に勤めないようにしては本末転倒じゃがな。
関靖はたしかに戦術的進言で誤った判断を提示してしまったかもしれん。じゃがそれは単に才の問題ぢゃ。こびへつらったからではないことは、その最後が証明しておると思う。
長史で軍馬を管理しておったことからも、軍事面である程度の才能を持っておったと思う。酷吏と言うのも法律に厳しい官僚じゃった、と言うことの裏返しでもある。そう考えると知謀以外は、それなりの評価をしても良いのではないかと思うのう。
少し分かる気がします。悪く言うのは簡単ですが、人ってそんな単純じゃないですもんね。
うむ、そう言うもんじゃ、仮にこびへつらうところがあったとしても、それだけではないはずぢゃ、できる限り引き出せるものは引き出してやりたいの。まあなまじ史書に評価が載っている分、彼のような人物を論ずるのはなかなか難しいがのう。さて、今回はこれぐらいじゃ、次を楽しみにしておれ。
また見てくださいね、それでは!