さて、今日は特別枠じゃが鮮卑族を語る上で欠かせない人物、檀石槐じゃ。人物としては191年は既に没していることがはっきりしているので、能力評価等は行っておらんが、彼がもし後20年遅く生まれておったら三国時代はどうなっておったか。興味深いのう。
人物紹介
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は鮮卑族の超大物、檀石槐じゃな。こ奴は正直やばいぞい。三国志の時代にこ奴がいなくて良かったのう。
凄い人物らしいのはわざわざ故人となっているのを上げていることから何となくわかりますが、と言うか今日はいきなり雑談なんですね?
うむ、今日は特別枠じゃからのう、檀石槐の凄さを現すには、その支配地域を見せるのが一番手っ取り早いじゃろう。弟子よどれぐらいと思う?
幽州の北の辺りですよね、幽州と同じぐらいじゃないんですか?
ふむ、まああまり知らなければそんなもんになるかのう、実際はこんなもんぢゃ。まあざっくりとになるのは許してくれい。
こ・・・これ幽州どころか、中国全部入っちゃうぐらいありませんか?
ふむ、そうじゃな、現在の地図で言うなら内モンゴル自治区と新疆ウイグル族自治区を合わせたぐらいの広さはゆうにあるのう。史書にも東西一万二千余里、南北七千余里、とある。三国志の時代の一里は400mぐらいと言われておるので東西で5,000kmぐらいになるのう。
今の中華人民共和国が東西5,000kmちょっとぐらいあり、ほぼ同じぐらいの北部エリアを鮮卑は支配しておったので、この辺りの距離はかなり正確に算出されているのではなかろうか。
それにしても三国志の世界が・・・こんなに小さく感じたのは初めてかもしれません。
そうじゃな、実際、後漢もこの鮮卑の勢いを憂いて、何度か討伐軍を繰り出しておるが、簡単に返り討ちにあっておる。また印綬を渡して和親を通じようとしたが、それも拒否されて相変わらず国境を荒らされておったんじゃ。
これ、後漢良く生き延びられましたね。
うむ、181年に45歳とかなり若い年齢で亡くなったからのう。もしもう少し長生きしておったら、曹操の北方制圧もうまくいったかどうか分からんぞい。なんせ、通常は大人の指導力が弱ければすぐに離反して相争うものなのに、これだけのエリアの部族を一つにまとめ支配するヤツじゃ。生半可な統率力ではないと言えるじゃろうの。
その内曹操の紹介もできると思うが、それと比べて檀石槐がどの程度の評価になるか、考察してみるのも面白いかもしれんのう。
しかし檀石槐がこれだけ強力となると、案外この外患を防ぐためには国内をまとめねば、同じ漢民族同士で戦っている場合ではない、と統一の機運が高まったかもしれんの。
あ、でも彼が若死にしたのが・・・と言うことはその後鮮卑は弱体したんですね?
そうじゃな、後継ぎの和連の出来が余り良くなく、かなりの部族が離反してしまったと言う話じゃ。なので、三国志時代の鮮卑は基本ある程度弱体している異民族、と言う認識で見ると良いぞい。その中でも軻比能等優秀な人物も出てくるんじゃが、それでも檀石槐には遠く及ばない、と言う話じゃからな。
まあその辺りを踏まえて、明日から鮮卑の大人達の紹介をしていくぞい、それではまたの。
次も見てくださいね、それではまた!
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい