三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

袁紹(えんしょう) 字:本初(?~202)・その2

袁紹の紹介、中編じゃな。今回で終わると良いのう。冀州牧になってからの袁紹について、説明を行っていくぞい。前編と後編は以下を見ると良いぞい。 

 ・袁紹紹介・その1(冀州牧就任まで)

 ・袁紹紹介・その3(官渡の戦い以降)

 

人物紹介

冀州牧になってからの袁紹

この時期、元韓馥に仕えておった人物で沮授、張郃田豊等が新たな配下となるんじゃ。彼らは袁紹の隆盛と凋落に大きく関わってくるんじゃよ。

まずは沮授が袁紹に天下統一のための方策を提示したんじゃ。袁紹はこの意見を良しとして非常に喜ぶんじゃ。そして上奏して沮授を監軍・奮威将軍に任命したんじゃ。董卓は胡毋班と呉脩を袁紹の下にやり、屈服させようとしたが、袁紹は彼等を王匡に殺害させたんじゃ。この辺りは容赦ないのう。

董卓はたいそう怒り、当時董卓の近くにいた叔父の袁隗と袁一族を悉く処刑したんじゃ。これによって袁紹董卓は完全に仇敵の間柄になった訳じゃな。

そしてその裏でちょっと悲しい話じゃが、韓馥が袁紹に対して恐怖し、遂に自殺してしまうんじゃな。なぜそこまで己を追い詰めてしまったのか・・・乱世向きの人材ではなかった、と言うことなのかのう。

さて、この時期に袁紹公孫瓚界橋の戦い公孫瓚を撃破し、冀州から公孫瓚の勢力を追い出すことに成功しておるんじゃ。公孫瓚との戦いはまたまとめで詳しく説明するぞい。

官渡の戦い前夜

以前袁紹は韓馥と謀って劉虞を新たな皇帝にしようとしたがうまいこといかんかったのは劉虞の所でも語った通りじゃの。その後郭図を一度献帝の下に使者として派遣したんじゃ。郭図は帰還すると天子を迎えることを進言したが、袁紹はこれを承知しなかったんじゃ。これは三国志本文の記述じゃが、、裴松之注釈の献帝伝では沮授が同じことを進言しておる。まあこう言うのは誰か一人のみが意見する、と言うことではなく同じ意見として同意することもあるからのう。

さて、袁紹がこの意見を聞き入れなかった理由についてじゃがこの時期の袁紹は勢力的には完全に他を圧するぐらいの勢力を築いていたことが大きいんじゃ。丁度公孫瓚を滅ぼしたことで、袁紹は幽州の大部分と冀州青州并州までの四州を制圧することになっておるんじゃ。袁紹は長男の袁譚青州に、次男の袁煕に幽州を、甥の高幹に并州を任せてそれぞれ統治させたんじゃよ。これは後々乱の元となるんじゃが、それはまた追々話していくこととしよう。

ともあれ、この時点で一番袁紹に肉薄していたのは曹操じゃが、それでも大きな差があった。この差をざっくりと画像で示すと以下の通りじゃ。 

f:id:kumajisan:20201011123909j:plain

袁紹(赤枠)と曹操(青枠)の比較

曹操は後、徐州を臧覇に関中方面を鍾繇に任せて、何とか袁紹に対抗していると言うことじゃな。二人とも曹魏を代表する優秀な人物じゃから覚えておくと良いぞい。ただ、例えば冀州は後に曹操が戸籍を調べると、30万の兵が徴発できるではないか、と驚いているぐらい豊かだったんじゃよ。それぐらい袁紹陣営は圧倒的じゃった、と言うことじゃな。

言ってしまえば袁家による天下統一はもう目前まで迫っている、と言う感じじゃろうな。じゃから皇帝はむしろ煩わしい存在じゃった。

それまでの王朝交代は基本的に前王朝の皇帝に非があり、それを討つことて新たな王朝を打ち立てていた。放伐と言うんじゃがこれを袁紹はやろうとしておったと思うんじゃ。北方を制圧したことも元々袁紹の予定通りの行動で、これは後漢王朝を打ち立てた光武帝の故事に倣っているものと思われる。そう言う点で、袁紹曹操よりもはるかに明確な天下統一へのビジョンがあったのでは、と思われるんじゃ。

じゃが曹操献帝を受け入れ、うまく立ち回るようになったことで、この袁紹のビジョンに狂いが生じたんじゃと思う。そう言うこともあって袁紹はだんだん曹操を敵視するようになったんじゃろうな。

ただ、田豊、沮授、張郃等は曹操の軍の精強さを警戒しており、曹操と直接ぶつからず、後方をかく乱させて相手を消耗させて弱体化させましょう、と言う進言を行っているんじゃが、他の人が袁紹曹操に10倍する兵力を持つのだから堂々と正面から叩き潰せば良い、と言う意見を言い、袁紹はこれを良しとするんじゃな。まあ実際先ほどの勢力差を考えるとこれ自体は決して間違いではないと思う。

うーむ、これ以上はかなり長くなるのう。中編としてもう一度切るとするかの。

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

雑談ぢゃ

ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、袁紹編中編じゃな。

さすがに有名人物となると長いですね。

そうじゃな、何だかんだで曹操にとって一番の強敵と言えるじゃろうからのう。

あれ、劉備とか孫権ではないんですね。

劉備孫権は好敵手ではあっても、絶望的な差を感じる強敵ではないからのう。それぐらい曹操にとっては危険な相手じゃったんじゃ。

そんなに差があったんですか?支配面積で言うと徐州と司隷も加えれば曹操もそう負けていないと思いますが・・・。

面積はあまり意味がないのう。やはり人口と兵力じゃよ。冀州は兵を30万調達できると曹操は驚いておるが、これが本当なら、全盛期の劉備孫権陣営の全兵力をも凌駕するほどの兵力を冀州一州で賄えるんじゃ。

曹操青州黄巾軍30万の降伏を受けているが、もちろん30万全員を兵にすることなどできん。そんなことをすればたちまち食糧不足に陥り、軍を維持することが不可能になってしまうからじゃ。

つまり青州黄巾軍の内兵士として使ったのはほんの一部、と言うことですか?

そうじゃろうな、大体兵を維持するには最低でも兵士数の10倍の人口が必要と言われておる。

30万の内兵士として使ったのは2~3万程度で、他は帰農させておったんではなかろうか。なんせ土地は余っておるからの。

そうするとイメージほど曹操軍の兵力は増えていない訳ですね。

そうじゃ、しかも曹操は東西南北全方位に注意を払わねばならん。そうすると必然的に率いることのできる兵力は限られてくると思うんじゃよ。

一方の袁紹は北方の異民族も手なずけており、後方の憂いをある程度解消しておる。

その辺りの周辺環境の違いも併せて、1:10とは言わんまでも、袁紹との差になってくるんじゃろうな。

うーん、何となく曹操が弱小側、と言われた理由が分かりました。四方に敵を抱えていては、確かに曹操も全力をぶつけることはできませんもんね。

うむ、さて中編はこれぐらいじゃな、まずは袁紹編を完結してしまうぞい。

次も見てくださいね、それではまた!

1⃣・2⃣・3⃣