さて、今回は袁紹配下の郭図じゃな。彼は色々と逸話のある人物じゃ。字は公則。生年は不明、没年は袁譚と同じ205年じゃな。
袁紹軍の問題児、になってしまうのかのう。彼の紹介を行っていくぞい。
人物紹介
若き日の郭図
謝承の「後漢書」では、南陽の陰脩と言う人物が潁川の太守となった時に、現地の賢人を幾人も抜擢しているんじゃ。荀彧や荀攸、鍾繇と言った議を代表する人物と共に、計吏の郭図を登用した、とあるんじゃよ。
計吏は郷挙里選で推挙された人物のことを指すのう。孝廉や茂才等と並ぶ人物評定の枠の一つじゃな。後漢では孝廉と茂才で推挙される人が多いから、計吏で、と言うのは結構珍しいかのう。
また「英雄記」には、袁紹が韓馥に冀州の牧の地位を渡すよう人を説得に向かわせたんじゃが、この時に郭図も一緒に遣わされているとあるんじゃ。
そして196年に献帝が長安を脱出し、洛陽に在住するに及んで郭図は使者として派遣されるんじゃ。そして帰還してくると天子を迎えて、鄴に都をおくように進言したんじゃ。しかし、別のビジョンがある袁紹はこれを拒否するんじゃな。
ちなみに「献帝伝」ではこの意見を述べたのは沮授と言う人物になっておる。まあこれは別に複数の人がそう言う意見をしてもおかしくはないからの。
郭図はこの辺りの政治的判断はまずまずなんではなかろうか。
官渡の戦い前夜
この後から、彼の悪い面が出てくるようじゃな。沮授と田豊は曹操軍は精強だから曹操の後方や辺境を荒らし、相手を疲弊させていけば労せずして曹操を討てる、と進言するのに対し、郭図と審配は彼我の勢力の差等を上げて、今こそ攻めるべき、と進言してしまったんじゃな。
袁紹が目指したのは光武帝、そして率いる軍隊は王者の軍隊。軍を率いて赴けば、自然と敵は首を垂れる。それぐらいの実力はあると思う袁紹にとって、沮授等のやり方は姑息に過ぎる、と思ったのかもしれんのう・・・。
そしてこの時に郭図は更なる進言をするんじゃ。沮授に軍事政治を全て任せて、袁紹と同等の権限を持たせるのは何かあった時に彼を制することが難しく危険ですよ、と。
そこで袁紹は沮授の権限を分割し沮授、淳于瓊、郭図の3人に軍の統率を任せるようにしたんじゃ。段々郭図の黒い部分が見えてくるのう。いや、実はこれぐらいの方がむしろ分かり易くてワシ嫌いじゃないんじゃよw
そしてこれはどこまで真実か分からんのじゃが、「献帝紀」で沮授は袁紹が黄河を渡ろうとするのを必死で止めるんじゃ。何も全軍で渡る必要はない。もし何かあれば戻れなくなる、と。袁紹がこれを聞かなかったので沮授は病気を理由に辞去したと言うんじゃ。すると袁紹はこれを恨みに思い、沮授の軍権を取り上げ郭図に所属させた、と言うんじゃ。
真偽は不明じゃが、この時期沮授が軍を督していた形跡は見られんのう。ただ、沮授自身は袁紹に従っておるので辞去はしてないんじゃろう。
官渡の戦い
200年2月に袁紹は郭図、淳于瓊、顔良を白馬に派遣し、東郡の太守劉延を攻撃しているんじゃ。しかしこの時に曹操の陽動に引っ掛かり顔良を失っておるんじゃ。
そして問題の官渡の戦いじゃが、曹操が烏巣を急襲した時、張郃は全力で烏巣を救援すべき、と言ったのに対し郭図は「敵の本陣を攻撃する方がマシ、そうすれば自然と曹操は本拠地に戻る。救援しなくても自然に解決するやり方です。」と意見したんじゃ。俗に言う『囲魏救趙』と言う故事じゃな。
しかし、郭図の意見に対し張郃は、曹操が本陣をがら空きにするはずがなく、簡単には落とせない、と主張するんぢゃ。しかし結局袁紹は主力軍を本陣攻撃に宛てるんじゃな。そしてその指揮官を張郃にしてしまうんじゃよ。この辺りは悪手じゃったのう。
後継者争い
袁紹が亡くなると、袁紹配下の武将が権力争いを始めるんじゃ。辛評と郭図は長男の袁譚に付き、審配と逢紀と言う武将は袁尚に付くんじゃよ。
「漢晋春秋」によると審配は袁譚に書簡を送り、兄弟が争っている場合ではない、元々袁尚が後継ぎになるのは決まっていたじゃないですか、と諫言するんじゃ。袁譚はこの文書を読むと涙を流すんじゃが、郭図に脅されており結局争いをやめることができなかった、とあるんじゃ。確かに上で3つに分割された都督として唯一生き残った人物じゃからのう。そこが袁譚には難しい相手じゃったと言うことじゃろうか。
さて、と言ったところで能力評価じゃ。今回は3作品とも出演しておるぞ。
能力評価
郭図は献帝を迎える進言を行っており、この部分においての政治判断はなかなかのもんじゃ。しかし軍事面では目立つ実績がないのでそちらは控えめじゃな。
また、戦術面で大きな失敗をしておることから、知謀は低めじゃ。それと上で評価した政治も、権力争いに終始したことで曹操に付け込まれる等、こちらでは政治面での失策もあるので政治も少しマイナスにするぞい。これが無ければ、政治はもう少し上げれたんじゃがのう。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は郭図じゃな。
師匠だけ政治が高いですね。ゲームの方はどれも知謀、知力がソコソコ高いです。
うむ、まあワシの政治が高いのはあくまでも献帝を迎えようとした政略面における見識の高さを考慮してじゃからな。
軍師的な役割を求めるなら中途半端に知力を上げんといかんのじゃろうが、官渡の失敗を考慮すると知謀を上げるのは少し違うと思ってしまうんじゃよ。
そう言えば張郃は何故あそこまで反対で来たんですか?意見としては一聴の価値はありそうですが。
うむ、『囲魏救趙』にはいくつかの条件があるんじゃ。まず、攻める軍が主力で、そちらに大軍を割いておること。そして本国(本拠地)は守備の兵数が少なく、守りが弱いこと。
じゃがこの時曹操は確かに精兵を率いておったが、機動力重視で大軍を率いてはおらんかった。
つまり官渡の守備に多数の兵を残しておったんじゃ。張郃は後の戦歴を見ても、地形や相手の情報等をきちんと収集し、分析する武将なんじゃ。
恐らくこの時も相手の状況を瞬時に把握し、どこを攻めないといけないかを把握したんじゃろう。もしかしたら情報収集も並行しており、それに基づく意見じゃったかもしれん。まさに名将と呼ぶべきじゃな。それにのう。
まだ、何かありますか?
うむ、元々城攻めと言うのはリスクが高いんじゃ。曹操が自ら主力を率いて城から出ている時こそ、攻めるチャンスだったんじゃよ。
なるほど、確かに守りを固めているところを攻めるより、出てきてくれた方が隙はありそうですものね。
そうじゃ、攻勢に出る、と言うのはある意味で陣が崩れることもいとわない、と言うリスクも背負うんじゃ。そこを攻めることができれば、曹操はどうしようもなかったかもしれんのじゃ。
とは言っても結果論でしかないからの。これ以上たらればを言っても仕方ないのう。
師匠今日は珍しく愚痴っぽいですね。
そうじゃなあ、実は袁紹が河北を統一していたら張郃はどうなってたかのう、とかはちょっと思うんじゃ。少なくとも烏巣の時は袁紹軍を代表する将になっておったからの。
まあ今日はここまでじゃ、いつか張郃紹介の時に色々語らせてもらおうかの。
分かりました。その時は存分に語ってください。次も見てくださいね、それではまた!