さて、今回は辛毗の紹介じゃな。字は佐治、生没年は不明じゃ。彼は剛直の士として知られる人物なんじゃ。今回は長くなりそうなので、2回ぐらいに分けるとしようかのう。
後半を見たい人は以下のリンクを見てくれい。
人物紹介
若き日の辛毗
辛毗の名前が出てくるのは曹操が司空になった頃じゃな。年代で言うと曹操が司空になったのは196年じゃな。この時に辛毗を召し寄せようとしたんじゃ。しかしこの時は既に袁紹勢力に属しておったから、応えられんかったようじゃな。ちなみに辛毗を推挙したのは荀彧らしいのう。同郷人ともあって(荀彧も潁川出身)、良く辛毗の能力を把握しておったんじゃろうな。
曹操へ降伏としての使者
203年8月から9月頃に袁譚は袁尚に負け続けたことで袁譚は辛毗を派遣して曹操に降伏し、救援を請うたんじゃよ。曹操は荊州を先に討伐し、袁尚と袁譚を相争わせて漁夫の利を狙おうかと考えたんじゃ。そこで辛毗は言葉を尽くして曹操を説得し、袁譚の降伏を受け入れ、袁尚を攻撃することの利を説いたんじゃよ。曹操は彼の説得を受けて袁譚の降伏を受け入れたんじゃな。
『先賢行状』によると、これより少し前袁尚と袁譚がたもとを分かった時、辛毗と郭図の家族は皆呼び寄せられて脱出するんじゃが辛毗の兄の辛評の家族は袁尚側の武将である審配に捕まってしまうんじゃ。
曹操配下として
審配は袁尚本拠地の鄴を守備しておったんじゃが、曹操の攻撃により遂に陥落してしまうんじゃ。城が落ちたのは辛毗等の裏切りのためと考えた審配は辛毗の兄、辛評の家族を全員殺害してしまうんじゃ。辛毗も救援に向かったんじゃが、一歩間に合わんかったんじゃよ。残念な話じゃ。
曹操は審配を取り立てようと思うんじゃが、親族を殺害され号泣する辛毗と、何時まで経っても弱音を吐かない審配を見て、遂には処刑するんじゃよ。まあこれは仕方ないのう。
曹洪のお目付け役
後に曹洪に下弁を平定させたが、辛毗と曹休をそれに参加させたんじゃ。この時曹操は二人に「昔漢の劉邦は財貨をむさぼり、女色を好んだが張良と陳平がその欠点を矯正した。おぬしらの心配は(張良や陳平と同様)軽くないぞ。」と言ったんじゃ。
これは曹洪も劉邦と同様、財貨と女色に貪欲と言う欠点を持っておるから、張良達と同様にきちんと曹洪を制御するんじゃぞ、と言う忠告じゃな。
二人は見事に曹洪を制御し、下弁に侵出してきた劉備配下の張飛、馬超等の将軍を撃退することに成功するんじゃ。
袁紹袁譚時代、そして曹操時代、まずはここまでかのう。続きは今日の晩にでもあげるぞい。
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雑談ぢゃ
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は辛毗じゃな。
この段階ではまだ辛毗の剛直さとかはあまり見えてきませんね。ですが曹洪将軍をうまく制御していると言うのはなかなか高評価になるんでしょうか?
そうじゃな、頭が良いとか政治で優れた治績を残した、と言うよりも、良いこと、悪いことの線引きをきちんと行い、相手が誰であろうとダメなものはダメ、と言える。
曹操はそうする必要があまりなかったため、目立たないが後半はこれぞ辛佐治!と言うエピソードがぼつぼつ出てくるぞい。
こういう臣下がいる国は自浄作用が働くから国が腐敗し難い。そう言う部分で、貴重な存在と言えるじゃろうな。
あ、後は曹操を説得した部分はちょっと凄みを感じさせますね。
そうじゃな、あそこの下りは詳細は書かずに曹操を諫めた内容をざっくりとしか書いていないが、実際は色んな言葉を尽くし必死に説得しているんじゃ。
曹操もどちらかと言えば、説得の内容よりもそうやって一生懸命な辛毗の姿を見て袁譚を支援しようとしたのかもしれんのう。
それは辛毗に対する最大級の賛辞かもしれませんね。
うむ、辛毗がそれを望んでおったかまでは分からんがのう。多分袁譚に対する援助を受けれなければ、と必死じゃったからのう。
そう言えば話変わりますが、曹洪は性格に難がありそうな人物ですか?
うむ、将軍としては非常に優秀なんじゃが、己の欲に忠実過ぎるんじゃろうな。
じゃがそう言う人物がきちんと国家のシステムの中で活躍できるのじゃから、魏はやはりたいしたもんじゃと思うぞい。
さて、今回はここまでじゃな。後半も待っておいてくだされ。
次もまた見てくださいね、それでは!
1⃣・2⃣