さて、今回は畢瑜じゃな。彼は正史本文には名前が出てこんようじゃ。
字や生没年は不明じゃな。彼もまたマイナーな人物と言えるが、やっていることを見ると、実は結構重要な人物だったんじゃよ。さて、彼はどんな人物じゃったか、紹介しようとするかのう。
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は畢瑜と言う人物の紹介じゃな。
畢瑜と言う人物は全然知らないですね。かなりマイナーなのでしょうか?
うむ、正史上でも一ヶ所、それも本文でなく、裴松之の注釈の所に名前が出てくるのみじゃ。
しかしその内容を見ると、実は重要な役割を担っておったことが読み取れるんじゃ。まあそれが上手くいったとは、言えないのが残念な所じゃがな。
気になる物言いですね。それじゃさっそく紹介をお願いします。
うむ、それでは人物紹介からいくぞい。
人物紹介
畢瑜は『献帝起居注』に名前が出てくるんじゃ。彼は元任の長と書かれておる。
元任と言うのがどこを指しておるのか、はっきりしなかったんじゃが任城県のことじゃろうか。任城県は任城国と言う兗州内の丁度中央ぐらいの所に存在する国で、以前は任国だったんじゃ。
色々調べたんじゃが、自分の調査範囲じゃと、ここぐらいしか可能性のある所が分からんかったんじゃ。すまんのう。
昔の国命が出てきて、そこの長を務めておったと言うことは、畢瑜も結構良い年をしておったのかもしれんのう。
「袁紹は先に冀州牧の韓馥と共に元大司馬の劉虞を擁立せんとし、皇帝の証である金璽を彫り、元任の長畢瑜を劉虞の下に派遣し、天命の定めを説き聞かせました。(以下略)」と書いてあるんじゃ。
ようは劉虞に皇帝になるよう、働きかけるための使者じゃな。そう考えると畢瑜はかなり重要な役割を担っておったのは間違いないであろう。
しかし劉虞は決して首を縦に振らなかったんじゃ。こうして畢瑜は役割を果たすことができずに帰還した、と言うことじゃな。
その後彼の名前が史書に出てくることはなく、動向は不明じゃな。
さて、それでは能力評価と行くかのう。今回はワシ評価のみじゃな。
能力評価
畢瑜は元任の長、と言うことから政治をそれなりに評価しておるぞい。また劉虞に皇帝になるよう説得する役割も担っておったので、知謀も評価しておるぞい。
しかし、この説得には失敗しておることから、評価は少し抑えめじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、畢瑜の能力評価じゃな。
袁紹陣営は韓馥へ冀州の牧を袁紹に渡すよう説得の使者を送ったり、公孫瓚にも書簡を送ったり、結構外交を重視していますね。
そうじゃな。袁紹は曹操にも人をやったり書簡を送ったりしておる。
軍事面は正攻法を好むタイプじゃが、外交で相手をだましたり、威圧して降らせたりと事前に策を施すことが、袁紹は結構多いのう。
それで戦が有利に運べることができれば良いのですけどね。
そうじゃな、袁紹の場合は公孫瓚の辺りまでは上手くやれてたと思うがの。曹操相手だとやや空回りしておった印象があるのう。
畢瑜は劉虞に皇帝になるよう説得に行ったのですが、説得は受け入れられず、それで知謀が少し低いのですね?
そうじゃな、もし説得が成功しておったら、日本で言う南北朝のように二つの天子が存在することになり、非常に面白い事態になっておったじゃろうからな。
成し遂げられておれば畢瑜の名前も大きく後世に残っておったじゃろうから、本人にとっては無念な話じゃろうな。
でもそれですと、後漢の内乱が余計に続くことになりますから、民にとってはたまったことではありませんね。
そうじゃな。劉虞は良く断ったと思うぞい。まあ元々献帝の下に使者を送ったりして忠誠を誓うような人物じゃからな。
さて、今日はここまでじゃな。さすがにマイナーな人物だけあって、董昭よりは大分短くなるのう。
次もまた見てくださいね、それではまたです!