さて、今回は孫瑾じゃな。
彼が正史に出てくるのは僅か一ヶ所だけじゃな。彼のことを知らん人も多いと思うぞい。字と生没年は不明じゃな。
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は孫瑾じゃな。
孫権の一族っぽい名前ですが、ここで出ると言うことは関係ないのでしょうか?
そうじゃな、実は孫権の一族にも同姓同名の人物はいるんじゃが、三国志の時代ではなく、晋の時代に出てくる人物なんじゃよ。
と言うことは今回の孫瑾は孫権達とは無関係と言うことですね。
うむ、魏には孫礼と言う幽州涿郡出身の人物がいるんじゃ。孫瑾の活動範囲を考えると、もしかすると孫礼と同系統かもしれんのう。
孫礼は演義に出てるんでしょうか?
まだそこまで読んでおらんのか。孫礼は諸葛亮の北伐の辺りで名前が出てくるんじゃよ。もっとも役割は大分改変されておるがのう。
それでは演義と正史の孫礼の違いは、彼の人物紹介の時にまた説明をお願いします。
うむ、それでは孫瑾の人物紹介と行こうかの。
人物紹介
孫瑾の名前が出てくるのは公孫瓚伝のところじゃな。劉虞が公孫瓚と戦い、敗北して捕らえられた時の話じゃ。
『英雄記』によると、劉虞が殺害される時、もとの常山の相の孫瑾は掾の張逸、張瓚らは忠義の心を燃え立たせ、連れ立って劉虞の下へ駆けつけ、口をきわめて公孫瓚を罵倒し、一緒に死んだ、とあるんじゃ。
常山の相とあるが、徳間書店さんの『三国志全人名事典』では相と言うのは国の王を補佐する行政長官と言うことを指しておるんじゃ。国は諸侯が統治する直轄領のようなもので、郡とほぼ同じで、相は郡太守に匹敵する権限の持ち主と言えるんじゃ。
郡県と国との併用統治なので、郡国制と言うやつになるのかのう。
ちなみに常山国は以下の位置にある国で、趙雲の出身地でもある。孫礼の出身地涿郡と近いことが分かるじゃろう。また涿郡は劉備の出身地でもあるんじゃ。
孫瑾は常山の相以前は恐らく劉虞配下としての目をかけてもらっておったのじゃろう。忠義の人として評価できるのではなかろうか。
実績や評判がないため、あまり大きな評価はできんが、その義心や相として国を任されておった実績などを考慮したいとこだのう。
さてそれでは能力評価と行こうかのう。今回はワシ評価のみじゃな。
能力評価
孫瑾は常山の相との役割を務めておったことから政治が高めじゃ。また義士として配下も付いてきていることから、統率を少し高めとしておるんじゃ。じゃが目立つ実績がないため、全体的にはやや抑えめの評価じゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、孫瑾の能力評価じゃな。
地図を見ると孫瑾の治めていた常山国と、孫礼の出身地は確かに近いですね。
そうじゃな、まあ他にも徐州にも孫観と言う武将が出てくるので、そちらの係累かもしれんがの。
能力的にはやはり文官系になるんですね。
そうじゃな、実績がないからあまり高評価はしておらんが、自らも処刑されるのが分かっていながら、処刑された劉虞の下に向かい、公孫瓚を罵ると言うのはなかなかできんことじゃのう。
劉虞にそれだけの人間的魅力があったことの証になるんですかね。
そうじゃなあ、乱世でなければ時代を代表する名君として名を残しておったんじゃなかろうか、残念な話じゃのう。
孫瑾ももう少し実績があれば、もっと違う形で後世に名を残したかもしれないですね。
ううむ、劉虞を救えたらとは思うが、違うところにいたからこれは難しいじゃろうかのう。
さて、それじゃ今回はここまでかのう。次もまたよろしく頼むぞい。
次も見てくださいね、それではまたです!