さて、今日は張瓚じゃな。
彼も孫瑾同様、正史に出てくるのは一ヶ所だけじゃな。字と生没年は不明じゃな。彼の紹介をしていくとしようかの。
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は張瓚・・・じゃな。
ん、どうされました?何か今日は歯切れが悪いですね。
うむ、まあちょっと気になることがあってのう。2週間ぐらい前に読者数とアクセス数がいきなりどかんと増えたじゃろ。
ええ、ありましたね。
で、何でいきなり増えたんか疑問だったんじゃが、何となく購入中のブログの「こんなブログもあります」に載っておったのが理由なんじゃないかと思うんじゃ。
載っていたことは確認できていないんですか?
今は載ってないから、確認のしようがないのう。で、最近落ち着いていたと思うんじゃが、今日またアクセス数が100人超えておったんじゃ。有名武将はここ数日扱っておらんし、意味が良く分からんのう。
師匠、分からない時は考えるだけ無駄ですよ。もしかしたらマイナー武将の需要かもしれないじゃないですか。
うーむ、色々と不思議じゃのう。じゃがこう言う不思議な話は、面白いと言えば面白いぞい。
出ましたね、師匠のヘンなとこ。
まあそこは否定はせんがの。さて、脱線もほどほどにしておかんとイカンのう。
張瓚についてじゃが、彼は張逸同様孫瑾に仕えておった人物じゃな。彼についての紹介をするとしようかのう。
人物紹介
張瓚の名前が出てくるのは公孫瓚伝のところじゃな。劉虞が公孫瓚と戦い、敗北して捕らえられた時の話じゃ。
『英雄記』によると、劉虞が殺害される時、もとの常山の相の孫瑾は掾の張逸、張瓚らは忠義の心を燃え立たせ、連れ立って劉虞の下へ駆けつけ、口をきわめて公孫瓚を罵倒し、一緒に死んだ、とあるんじゃ。
この辺りは孫瑾、張逸の所と同じじゃな。何度も同じ文章の使いまわしでスマンのう。
張逸とは同じ張姓であり、二人とも常山出身と考えると同族かもしれんのう。
常山出身じゃと趙雲が有名じゃが、読みが同じ「ちょう」でも字が違うので、彼は無関係じゃな。そもそも日本語では同じ読みでも中国では違うんではなかろうか。
『Google翻訳』じゃと張は「Zhāng」で、趙は「Zhào」じゃからやはり違うのう。
ちなみに掾になれる人間はエリートと言うことらしいから、順調に出世していれば、もっと違う形で後世に名を残しておったかもしれんのう。まだ若かった可能性もあるし、惜しい話じゃな。
さて、人物紹介はこんなもんじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回もワシ評価のみじゃな。
能力評価
張瓚も張逸同様に常山の掾と言うことじゃ。孫瑾が統率と政治、張逸が軍事面の能力を高めに評価しておるので、張瓚は知謀方面を高くしておるぞい。とは言え実績がないから評価はやや抑えめじゃがのう。
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雑談ぢゃ
さて、張瓚の能力評価じゃな。
張逸同様、やはり100行かないぐらいですね。孫瑾陣営はこの3人だけですか?
そうじゃな、孫瑾で始めて天下統一できる人がいればたいしたもんじゃろうな。
彼等には天下統一の野望はなかったと思いますが、もし野望を持ったとして、天下統一できるものなんでしょうか。
そうじゃな、まあ曹操や袁紹、孫堅なんかは郡太守からあそこまで勢力を伸ばしておるから、不可能ではないじゃろう。
劉備も平原国の相と、孫瑾と同等の立場じゃったからのう。後はやる気の問題じゃな。
ですが配下の人数とかを考えると、なかなかイバラの道ではありそうですね。
うむ、まあ『天下統一』と言う作品でも、どこまで弱小勢力で天下統一できるか、と言うようなことをやっておった人もおったからのう。
でも何となく三国志だと、有名なところでやってしまう印象がありますね。
結局そこは小説ベースになっておるからじゃろうな。小説じゃとどうしても主役と敵役と言う分かり易い構図になってしまう。そうでない分かり難い小説なんぞ誰も読んでくれんからのう。
小説を読むと、ついつい贔屓の人物も偏ってしまう。これはもう必然じゃな。
小説としてはそれが正しい手法じゃろうが、当然史実はそう単純な話でもない。正史を読むと、特に190年~195年頃は各地に面白い人材がおるから、そう言う人達を紹介出来たら、とは思うぞい、以前紹介した閻柔や鮮于輔のように立伝されておらんでも、重要な立場の人物もおるからのう。
確かに、今まで出てきただけでも、他にも立伝されてても良いのでは?と思う人も出てきていますもんね。
うむ、孫瑾はさすがにその中でもマイナー過ぎるが、一度武将登録してやってみるのも面白いかもしれんのう。
さて、今日はここまでじゃな。次からは黄巾残党連中が出てくるぞい。
冀州は結構いろんな勢力がひしめいておる。面白くも大変な地域じゃな。それではまたよろしく頼むぞい。
次も見てくださいね、それではまたです。