さて、今回は王当じゃな。
彼は張燕に従う武将として名前が挙がっておったんじゃ。
張燕配下として、そして張燕が曹操に降伏した時、王当はどうなったのか?
気になる所じゃのう。
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は王当じゃな。
張燕配下の人物ですね。彼は名前がちょっと普通のような感じがしますね。
そうじゃのう。当が付く名の人物は何人かいるが、別に普通についてておかしくない感じじゃのう。
彼はどんな人物だったのでしょうかね?
資料が少なそうじゃからのう。ちと見ていくこととしようかのう。
人物紹介
彼については正史の方を見ると、張燕は常山、趙郡、中山、上党、河内の賊徒と手を結び、そこの小頭目の孫軽と王当らはいずれも手勢を引き連れ、張燕に付き従った、とあるんじゃ。
上党と河内はそれぞれ并州と司州で少し距離があったので、そこの頭目はその地でそれぞれ反乱しておるから、張燕の下に付き従った可能性は少し低いと思うんじゃ。
そうなると二人の出身は趙郡と中山の可能性があるかのう。
さて、正史を見ると王当はこれで出番が終わりじゃが、徳間書店の『三国志全人名事典』を見ると、のちに曹操陣営に加わり平北将軍になった、とあるんじゃが、これはちとおかしいんじゃよ。
ちなみに平北将軍は魏ではかなり品管の高い将軍号じゃな。
さて、そうなると王当のその後が結局分からなくなってしまうんじゃが、研文出版の『三国鼎立から統一へ』を読むと上尊号碑の所に興味ある部分があるんじゃ。
上尊号碑については以下に簡単な説明を入れておるぞい。
さて、この上尊号碑の碑文に記載されておる人物を見ていくと、三十六番目の人物で「振武将軍・尉猛亭侯・臣当」とあるんじゃ。「臣当」と言うのは名が当と言う人物を表しておるんじゃが、これに該当する人物は不明とされておるんじゃ。
そして史書に載っている人物で名に当が付く人物で、220年頃魏の臣下で名の通っていそうな人物じゃと、王当ぐらいしか該当する人物が見当たらんかったんじゃ。
じゃからワシはこの振武将軍は王当だったんではないか、と考えているんじゃ。また亭侯の名称「尉猛」も良く使われる地名とは少し違うようじゃ。張燕も「安国」と地名とは違うようじゃし、賊徒上がりと言うことで、少々特殊な名号を付けておるように思えるんじゃ。
ちなみに張燕がなっておった平北将軍は3品で、王当(?)の振武将軍は4品じゃから、将軍号の序列から見ても張燕>王当の並びになっており、二人の関係性を崩しておらん。可能性はそこそこあると思うんじゃが、どうじゃろうな。
そうだとすると、王当は将軍としてソコソコ優れた人物と判断できるのではないだろうか。一応その前提で能力評価を行うぞい。今回は三国志14以外に出ているぞい。
能力評価
王当は張燕部下から曹操配下へ転身し、最後は将軍号をいただき、上尊号碑にまで名を残した可能性を考慮し、平均的に高めの評価としたんじゃ。ただあくまでも軍人である、と言う雰囲気から政治は抑えめじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、今回は王当の能力評価じゃな。
今回も師匠ちょっと特殊ですかね。他の作品は統率がもっと低いですが、師匠は統率の方が高いですね。
そうじゃな、自分の場合は上尊号碑に載っている人物を王当と仮定した上での評価じゃからな。そうでなかったらわしももう少し統率を下げとったかもしれん。
その場合は天舞さんとかと同じぐらいだったと言うことでしょうか?
そうじゃなあ、他はちと統率と知謀が低すぎる気もするが、ワシも後30ぐらいは落としておったかもしれん。
そう言えば天舞さんと鄭問さんは凄い似通っていますね。
うむ、鄭問さんの上限が天舞さんのほぼ倍である、と言うことを考慮するとだいたい同じぐらいになってるのう。
上尊号碑に載っている人物だったのか、気になる所ですね。
そうじゃな、上尊号碑には46人が名前を連ねておるが、今回の「臣当」のように、何人か誰を指しているのか不明なのがおるんじゃよ。
何時かそれが誰なのかがはっきりすると良いですね。
そうじゃな、まあこればかりは文献が出てこんと確認のしようが無いからのう。まあワシはお気楽に予想だけさせてもらうとしようかのう。
さて、今回はここまでじゃのう、次もまたよろしく頼むぞい。
次も見てくださいね、それではまたです。