さて、今回孫軽じゃな、字や生没年で不明じゃ。
孫軽は黒山賊の小頭目で王当と同じように張燕に付き従ったようじゃ。その後の彼がどうなっていったのか、その辺りを紹介していこうかの。
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は孫軽じゃな。
この方は何となく黒山賊や黄巾賊っぽい感じの名前ですね。
そうじゃな。試しに今ワシのデータベースで検索をかけてみたが名に「軽」と付く人物はヒットせんかったようじゃ。普段あまり使われん名、と言うことかのう。
何となく身が軽いとか、そんな雰囲気の人になるのかもしれませんね。
そうじゃな。黒山、黄巾の首領達は、そう言う名前の付け方をしてるらしいからのう。
さて、張燕配下で王当とセットで語られる孫軽じゃが、その後、どうなったか見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、孫軽についてじゃが、王当の所でも少し書いておるが、張燕に付き従ったと言うことは趙郡、中山辺りのどちらかの出身だったと考えられるんじゃ。
さて、ここからは張燕と共に行動していたことが前提になるが、孫軽は基本袁紹と常に敵対するように時には董卓に降伏し、時には公孫瓚と手を結んで戦っておったんじゃ。じゃが董卓も死に、公孫瓚も敗れて徐々に黒山賊も追い詰められていく訳じゃな。
しかしその時曹操と言う救いの手が現れるんじゃ。
袁紹が官渡の戦いに敗れ、二年後亡くなり袁尚・袁譚へと代替わりしたが曹操に攻められ、鄴が陥落するんじゃ。同時期に魏将となっておった張遼は別軍を率い、趙郡と中山国を攻め落とし、山沿いの賊どもと黒山賊の孫軽を誘って降伏させたと言うんじゃ。
意外な所で意外なつながりがあるのう。
そして趙郡、中山国に孫軽がおった、と言うことはやはりこのどちらかの国が孫軽の出身地、と言うことになるんじゃろうな。
そしてそこで孫軽の名前はぷっつり消えてしまうんじゃ。研文出版の『三国鼎立から統一へ』の上尊号碑にも孫軽らしき人物の名前は載っておらず、将軍号を受けたのかどうかも不明じゃな。
元々は王当と同列だったんじゃが、最後は少し差がついたのかもしれんのう。もしかしたら早くに亡くなったのかもしれんが、そこは窺い知ることのできん話じゃな。
さて、それでは能力紹介といこうかの。今回はワシのみじゃな。
能力評価
孫軽は小頭目として張燕に従い、長年袁家と戦い続けたことから、軍事面をそれなりに評価しておる。じゃが、実際の戦績が見えず、王当のように曹操に降伏後、将軍職に就いた可能性もはっきりわからないことから、全体的には抑えめな評価じゃの。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
雑談ぢゃ
さて、孫軽の能力評価じゃな。
同僚の王当に比べると少し能力に差が付けられていますね。。
うむ、通常なら同じぐらいになるんじゃが、王当が魏に降ってから出世したかもしれん、と言う可能性を考えるとちと差がつくのではないかのう。
もっとも、上でも書いておるように、元々は同格だったのが、孫軽の寿命が先に尽きたため差がついたかもしれん。
でもそれもまた能力評価の差にはなる、と言うことですね。
そうじゃな、有名人物の若死にのような場合はその辺りも考慮するが、生没年不明な人物の場合じゃと、亡くなった時点で能力MAXだったと割り切るしかないからのう。
そう言えば今のところ若くて能力MAXまで行っていない、と評価した人物っていませんね。
まあ袁譚とかはどうかな、と思ったんじゃが、袁紹が202年に60弱で亡くなったと考えると、20の時の子供なら官渡の時点でも30後半じゃから、ギリギリMAX付近まで行っておった、と考えられるからの。
うーん、年齢不詳ってのは難しいですね。若いか老齢かでイメージがだいぶ違いますからね。
演義ですと、みんな若いままのイメージで、ある日突然寿命が来るような錯覚に陥りますね。
趙雲とかはそんなイメージが結構強かったのう。癖がない分、何かずっと若いイメージじゃったが、南征辺りから急に老将イメージが出てきたな、と言う感じじゃったな。
確かにちょっと老将っぽい雰囲気に急になったのを、最近読んでて感じますね。丁度南征の辺りです。
まあ物語を読んでおるとどうしても時間の感覚は違ってくるからのう。
さて、今日はここまでじゃな。次もまた見てくださるとうれしいぞい。
次も見てくださいね、それではまたお願いします。