三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉備(りゅうび) 字:玄徳(161~223)・その2

さて、劉備の紹介2回目じゃな。

1回目は主に軍事面の実績を載せておるぞい。3回目は能力評価や他のエピソードじゃな。

劉備紹介その1(軍事面)

劉備紹介その3(その他・能力評価)

今回は知略や政治面での目立った実績等を載せていくぞい。

正史の劉備の策略・政治面の実績はどのようなものか。簡単にまとめて紹介していこうとするかのう。 

人物紹介

さて、劉備の紹介の2回目じゃな。

こちらでは知略面と政治面の紹介といっていましたよね。1回で終わるんでしょうか?

うーむ、正直これは分からんのう。知略と政治でまとめられそうで、どうか、と言う感じじゃからな。まあボリューム次第でその他のエピソードや能力評価は次に回すかもしれんぞい。

分かりました。それでは知略や政治面の紹介をお願いします。

うむ、それではさっそく見ていくとしようかの。

知略・政治面の実績

さて、知略や政治面じゃがこれは普通に記述形式といこうかの。

平原の相時代

『魏書』(三国志魏志とは別)によると、平原の相に任じられた頃(191~192年頃)に郡民の劉平と言う人物が劉備の下風に立つことを良しとせず、暗殺をしようとしたんじゃ。じゃが劉備はそれを知らず刺客をたいそう手厚くもてなしたので、刺客は殺すのに忍びなく、ありのままを劉備に伝えて立ち去ったんじゃ。

そしてこの頃、民衆は飢餓に苦しみあちこちで略奪を働いておったんじゃ。劉備は外部からの暴徒は軍事力で防ぎ、領内の民衆に対しては経済上の恩恵を与えたんじゃ。

そして身分の上下に関係なく必ず席を一緒にして座り、同じ食器で食を取って選り好みしなかった。こうして劉備は人民からの信を得たんじゃよ。

じゃがまあ何か特別な施策をやったと言う訳ではなく、あくまでも常識の範疇による統治と言ったところじゃのう。

曹操の下にて 

別のエピソードじゃが、曹操の下におった時(198~199年頃)に、曹操とくつろいでおる最中に曹操から「今、天下に英雄と言えば御身と私だけだな。」と言われ、食事をしようとしておった劉備は思わず箸を落としてしまうんじゃよ。『華陽国志』によると丁度この時に雷が鳴り、劉備はそれにかこつけて「聖人が『突然の雷、激しい風に対しては必ず居ずまいを正す』(『論語』郷党篇)と言っておりますが、なるほどもっともなことです。しかしそれにしても雷鳴の凄さがこれほどとは。」と言ってごまかすんじゃ。

劉備と言うと正史の方ではあまり勉強が好きでなかった、とあるが見事な機転じゃと思わんか。雷のなった一瞬で、論語の一節を持ち出した見事な切り返しじゃ。頭の回転の速さと、古典に対する造詣がなければこうは上手くいかんぞい。

ただ、これは却って曹操を警戒させることになったんじゃなかろうか。そう言う意味では少し失策じゃったかもしれんのうw

袁紹との結び付き

次のエピソードじゃな。さて劉備曹操の下から独立し、徐州を支配するようになってからじゃが、劉備は来たる曹操との戦いを有利に進めるため、孫乾を派遣して袁紹と同盟を結ぶんじゃ。この辺りは実に抜け目がないのう。後に曹操に敗れると劉備袁紹の下を頼るんじゃ。

また袁紹の下から離脱を図ろうと考えた劉備は、袁紹荊州劉表と同盟を結ぶことを進言し、本来の部下を返してもらい、南方に赴くんじゃ。汝南では最終的に曹操に敗れるんじゃが、劉表の下に落ち延びることに成功するんじゃな。危機感に対する嗅覚はさすがじゃよ。

白望坡の戦い

劉表の庇護の下、新野に駐屯していた時(200~208年頃)には夏侯惇于禁と戦っておった時じゃが、あらかじめ伏兵を用意しておき、自らの屯営を焼き払って敗走したように見せかけ敵軍を引き込み嵌めたんじゃよ。

これは日本の戦国時代に薩摩島津が得意としておった、釣り野伏の戦術と同じじゃな。如何に敗走らしく見せることができるか。結構高難度な戦術じゃ。下手な指揮じゃと本当にそのまま敗走、なんて笑えん事態に陥ってしまうでのう。何だかんだで劉備は戦上手じゃと思えるのう。

この時期、曹操は袁一族との戦いや、北方の異民族征伐に赴いており、許の守りはやや薄かったんじゃよ。劉備は許の襲撃を進言するんじゃが、劉表はこれは採用せんかったんじゃよ。もっともこうなることを魏の参謀連中は読んでおり、じゃからこそ曹操は北征を行っておったんじゃな。

この辺りはさすが、曹操率いる優秀な参謀連中が一枚上手じゃった、と言うことじゃろうな。

赤壁の戦い 

その後赤壁曹操劉備周瑜の軍に敗れた時(208年)じゃ。『山陽公載記』によると軍が敗戦から脱出しえた後、曹操はたいそう喜んだんじゃ。諸将が敗戦後なのになぜ喜ぶのか、と訝しんで理由を尋ねると「劉備はわしと同等じゃが、計略を思いつくのが少し遅い。先に素早く火を放てば、わしらは全滅じゃった。」実際にその後劉備は火を放つんじゃが間に合わなかった、とある。

正直このエピソードはどこまでが本当なのか信憑性が怪しいんじゃが、劉備曹操の差を表すエピソードとして載せておくぞい。

ちなみに三国志演義赤壁後に趙雲張飛関羽等が曹操を襲うのはこの話を膨らまして作られたものじゃな。

益州攻略

さて、次のエピソードじゃな。益州張魯に対すべく招致された劉備じゃが、すぐには動かず、その地で人心収攬したんじゃ(211~212年頃)。要は人気取りをしておったということじゃな。何だかんだで抜け目がない人物じゃよ。

こうすることでいざ益州を攻めるとなった時にも現地民の反感や反乱を最低限に抑えたんじゃな。

漢中攻防

そして漢中攻防戦(218~219年頃)じゃな。広石で一度張郃に撃退された劉備は兵力を増強し、万全の体制で以って定軍山の戦いに臨んだんじゃ。まずこれなら確実に張郃を破れる、と増強した兵力で張郃の陣を襲い、張郃が苦境に陥ったと聞いた夏侯淵が援軍を派遣し、一転夏侯淵の陣営が手薄になったと見るや、夏侯淵に狙いを定めて急襲し、夏侯淵と(曹操から益州刺史に任じられたおった)趙顒を斬ることに成功しておるんじゃよ。

実はこの時劉備はあわよくば夏侯淵張郃両将の首、一挙両得を狙っておったと思うんじゃよ。じゃが張郃はこの苦境を切り抜け、あまつさえ漢中軍臨時の総大将になってしまった。この辺り、少しだけツメが甘かったのう。

 

さて、劉備の知略、政治面のエピソードは大雑把じゃがこんなもんじゃな。やはりもう一回やらんといかんようじゃの。

 

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雑談ぢゃ

さて、劉備の知略・政治面の実績じゃ。どう思ったかのう?

意外と策略とかをうまく使っている印象ですね。ただ、政治的にはそんなに見るべきこととかはやっていないんですね。

そうじゃな、恩愛で以って統治をして、民衆から慕われた、と言う感じのことはあるんじゃが、これは他にも多くの武将とかでもやってたりする話で、特段劉備だけが優れている、と言うのとは違う感じじゃな。

策略は何となくですが、それなりに使いますが、ただ遠大な策とか戦闘の勝利を決定づけるようなものとかとはちょっと違うイメージですね。

うむ、漢中攻防戦が分かり易いと思うが、劉備はその場での状況による直感的な戦術が多いんじゃ。これは実は曹操とも似ており、良く言えば臨機応変、悪く言えば行き当たりばったりなんじゃ。

戦況を見ながら戦術を練り直していくような感じでしょうか。

そうじゃ、これは諸葛亮とかとは少し違うんじゃ。諸葛亮はどちらかと言えば事前に水も漏らさぬような戦略戦術を練り上げ、万全の準備をしたうえで出撃をするタイプじゃな。

どちらが良い悪いではないんじゃ。曹操劉備の場合は戦術の準備が整わない内に急襲を受けると大敗の危険がある。両者とも結構な死線を潜り抜けているのはそのためでもあるのう。

諸葛亮の場合は逆に、己の戦略戦術通りに進んでいる内は問題ないが、不測の事態が起こった時の立て直しが難しい。じゃが事前準備はがっちりやっておるので傷は最小限で済む。

はー、やっぱり人によって戦い方、と言うのはだいぶ違うのですね。

うむ、曹操劉備も別に事前準備を怠っておる訳ではなく、兵站とかはきっちり用意するが、策を考え展開するのは実際に相手と対峙し生の情報を入手してから、と言う感じじゃのう。

そしてその臨機応変の策をどのタイミングで使うのか、ここで曹操劉備には少し差があるように思うのう。

つまり曹操は最大の効果が見込めるタイミングを掴むことが上手く、劉備は少しそのタイミングが少し遅くて最上の結果を逃している、と言うことですか?

うむ、実は劉備に限らず、これは蜀全体の傾向でもある。諸葛亮司馬懿に「あれこれ考えるが、そのためにタイミングが遅れる。」と言われているんじゃ。蜀がもう少し、と言うところで、最上の成果が得られん要因の一つになっておるのかもしれんのう。

うーん、演義でも何て言うんでしょうか?少しもやもやすると言うか、消化不良のような感じがするのはそう言うのも関係あるんでしょうか?

そうかもしれん。創造部分も多くあるが、元々は正史の内容を基に作られておるのは確かじゃからな。

さて、と言うところで劉備の能力がどんなものか想像がついてきたかのう。

うっすら程度ですね。次でどんなものか見させてもらいます。

うむ、それでは今回はここまでじゃな。

次も見てくださいね、よろしくお願いします。

 

1⃣・2⃣・3⃣