三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

関羽(かんう) 字:雲長(?~219)・その1

さて、今回は関羽の紹介じゃな。

字は雲長、じゃが元々は「長生」と言ったんじゃよ。司州河東郡解県の出身、生年は不明、没年は219年じゃな。

彼もまた有名な人物じゃな。さて史書での関羽はどんな人物じゃったか、紹介するとしようかのう。 

関羽紹介その2(評判・エピソード)

関羽紹介その3(その他・能力評価)

 

人物紹介

さて、関羽の紹介じゃな。彼も劉備同様にちと分けるぞい。

今回まとめるのに凄い時間かかっていましたね。何かあったんですか?

うむ、劉備もそうだったんじゃが、彼等は本伝以外にもあちこち名前が出てくるんじゃ。

劉備の方は本伝以外は名前が出てくるぐらいでたいしたことはなかったんじゃが、関羽の場合は色んな所でいろんな人物が関羽についての評価や、関羽に対する戦術、関羽絡みの動向が書かれておるんじゃ。

ははあ、それをまとめるのに時間がかかった、と言うことですね。

そうじゃな。実は今はまだテキストをざっくりと書きだしただけで、まだ全然まとめきれてもおらんのじゃよ。

(その辺りの行き当たりばったりぶりはいつも通りですね、師匠。)

こりゃ、そう言う時は臨機応変と言うんじゃよ。

いやいや、師匠人の心勝手に読まないでくださいよw

まあいつまでもこのままと言う訳にもいかんじゃろ、とりあえず戦績はだいたいまとまったので、そこからいくぞい。基本は劉備と行動を共にしておるので、序盤は劉備と一緒に、荊州あたりから別軍を率いるケースが多くなるので、そこからは関羽自身の指揮による実績となっていくぞい。

軍事面の実績 

関羽戦績

      対黄巾  

     対下邳賊  

      曹操  × (高唐)

      対張純  

      曹操   (徐州1)

      対袁術   (淮陰)

      呂布  × (徐州1 不戦敗)

   対楊奉・韓暹  

      呂布  ×  (下邳?)

      呂布   (徐州2)

      曹操  × (徐州2)

      顔良   (白馬)

      曹操  × (汝南3)

  対夏侯惇于禁  

   楽進・文聘  × (尋口)

徐晃・満寵・文聘  × (漢津)

      対李通  × (江陵)

   魯粛呂蒙   (益陽)

      曹仁   (樊城)

      于禁   (樊城)

      龐徳   (樊城)

   徐晃・趙嚴  × (樊城)

   呂蒙陸遜  × (当陽)

 

                      23戦 8勝10敗5分

 

およそ以上になるかのう。トータルの勝率は3割5分弱じゃな。結構負け戦が多いのが意外じゃな。じゃが、よく見ると魏や呉の名将を複数相手にしての戦いが多いじゃろ。人材の厚みに差があることの証左じゃろうな。いくら関羽でも分の悪い戦いが多かった、と言うことじゃろうな。続いて主な戦闘の内容を記載するぞい。

 

主な軍事内容

白馬の戦い

曹操は白馬にて顔良を急襲するんじゃ。この時張遼関羽を先陣としたんじゃな。関羽顔良の旗印と車蓋を望見すると馬に鞭打って馳せつけ、顔良を刺し殺し、曹操軍を勝利へと導くんじゃよ。通常指揮官が前線で自ら敵陣に突っ込むのは珍しいケースなんじゃよ。ちなみに顔良を「刺し」殺していることから、得物は青龍偃月刀でないことだけは確かじゃな。

尋口の戦い

楽進荊州平定戦に参加し、その後留まって襄陽に駐屯したんじゃよ。そこで楽進関羽・蘇非らを攻撃し、全て敗走させたんじゃよ。この時は文聘も参加しており、文聘伝によると尋口にて関羽を討伐した、とあるんじゃよ。

漢津の戦い

徐晃は満寵と共に関羽を漢津において討伐し撃退してるんじゃよ。文聘はこの時も参加しており、文聘伝ではこの時関羽の輜重を攻撃し、荊城においてその船を焼き払った、とあるんじゃ。文聘恐るべしじゃな。

江陵の戦い

周瑜劉備曹仁を江陵に包囲し、関羽には命じて北道を断ち切らせておったんじゃが、李通は軍勢を引き連れ関羽の陣を攻撃し、自らも馬から降りて逆茂木を引き抜いてこれを突破し、包囲陣に突入して戦いつつ前進し、遂に曹仁を救い出したんじゃ。李通も強い武将じゃのう。

益陽の戦い(単刀赴会)

荊州の領有問題が起こると劉備関羽に兵を率いさせ、益陽へ向かわせたんじゃ。魯粛は巴丘にて関羽の侵攻を防いでおったんじゃが、この話を聞いた孫権呂蒙魯粛の救援に向かわせたんじゃよ。互いに益陽で対峙したんじゃが、結局戦端が開かれることはなかったようじゃな。

有名な単刀赴会があったのはこの頃じゃな。正史じゃと魯粛の発言に関羽は一言も返せんかったようじゃ。まあ魯粛がいなければ劉備達があれだけの勢力になることも不可能だったのは確かで、これはもう仕方ない話じゃのう。

樊城の戦い

219年劉備は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節と越を貸し与えるんじゃよ。そして219年7月、関羽は軍勢を率いて樊城におる曹仁を攻撃するんじゃ。于禁は七軍を率いて曹仁の救援に向かうんじゃが、漢水の氾濫に巻き込まれて関羽に降伏せざるを得なくなるんじゃ。

龐徳は侯音が氾濫した時に曹仁と共に宛を攻撃し、その後関羽攻撃にも参加したんじゃよ。後に于禁同様漢水の氾濫に巻き込まれるんじゃが、龐徳は最後まで戦い、最後は矢が付き刀も折れて関羽に捕まるんじゃ。龐徳関羽を罵り、関羽に殺されるんじゃよ。

その次に徐晃が樊城を包囲しておる関羽を討伐するために赴くんじゃ。徐晃は増援兵が集まるまで待ち、城内の曹仁と連絡を取り、時機が来ると四冢の屯営を攻撃しようとしたんじゃ。関羽は自ら5,000の兵を引き連れ戦ったんじゃが、徐晃に打ち破られるんじゃよ。徐晃はそのまま包囲陣の中にまで深く追撃し、これを打ち破ったとある。

当陽の戦い

関羽は当陽まで退却し、西の麦城に立てこもるじゃ。孫権が降伏を勧めるとそれに乗るふりをしながら脱出しようとするんじゃが、これは既に孫権に読まれており、脱出経路は塞がれておったんじゃ、かくて関羽は捕まり斬られたんじゃな。

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

 

雑談ぢゃ

さて、関羽の軍事面の実績じゃ。

こちらは劉備と違ってイメージよりも敗戦が多くて、逆の意味でびっくりしました。

うむ、関羽の名前が出ておらんで、劉備の戦績となっている分を除外するとしても、そちらも勝ちと負けの数がイーブンなので、あまり変わらんじゃろうな。

ただ、どちらかと言えば関羽が負けたから関羽はたいしたことない、ではなく、関羽を破ったからこいつらスゴイ、と見るのが正解じゃろうな。

登竜門のようなもの、と言うことですね。

うむ、まあ実際の傾向として、関羽は受けがやや弱い、と言うのはありそうじゃがの。

あ、そこは何か理由があるんですね。

そうじゃな、具体的な戦闘やいろんな人の評判などから、その辺り探っていくとしようかのう。しかしちとまとめるのに疲れたんで、今回はここまでとするかのう。

次も見てくださいね。それではまたです。

 

1⃣・2⃣3⃣