さて、関羽の紹介2回目じゃな。
劉備の時は2回目で知略や政治のエピソードが多かったが、関羽の場合は彼に対する評価や特徴などを中心に説明を行っていくとしようかのう。
人物紹介
さて、関羽の紹介の2回目じゃな。
関羽の場合、知略面と政治面でなく、エピソードとか中心なんですね。
うむ、さっきテキスト見たら5000文字を余裕で越えておったので、多分今回も1回では終わりそうにないのう。
それでは今回も3分割ぐらいですね。
そうじゃな、何とかそれで終わらせることとしよう。それではさっそく行くぞい。
関羽の評価・評判
程昱・郭嘉
「劉備は英名があり、関羽と張飛は一万を相手に立ち向かえる人物。」
劉曄
(一軍は3,200人程度で、三軍は9,600人、劉曄も万に冠する将軍と評している)
諸葛亮
「(馬超は)文武の才を備え一代の傑物であり、黥布や彭越に匹敵する。現代では張飛と先を争う人物であるが髭殿(関羽)の比類なき傑出ぶりには及びません。」
呂蒙
「関羽は成人してから学問を好むようになり、『左伝』をほとんど暗誦できるほどであり、あけっぴろげでなすことあらんとする気概を持っておりますが、自負心の強い性格で、人を人とも思わぬ態度に出ます。」
廖立
「(関羽は)剛勇と名声を頼んで、軍の作戦行動の仕方がでたらめで、ただ気の向くままに突進した為であり、それゆえ前後に渡って何度も軍勢を失ったのである。」
続いて関羽に関しての主なエピソードを載せていくぞい。
関羽に関するエピソード
関羽が曹操の下に降った時
曹操は関羽の立派な人柄を評価したが、関羽は長くここに留まらないのではと思い、関羽と仲の良かった張遼に聞きにいかせたんじゃ。関羽は深く嘆息し「曹公(曹操)が自分を厚遇してくださるのは良く知っていますが、私は劉将軍(劉備)から厚い恩誼を受けており、一緒に死のうと誓った仲です。あの方を私は裏切ることはできません。私は絶対留まりませんが、必ず手柄を立てて、曹公に恩返しをしてから去るつもりです。」と言ったんじゃ。そのことを聞くと曹操はその義心に感心したそうじゃ。
そして曹操は関羽が顔良を討った後、必ず去るだろうと思い、彼を漢寿亭侯に封じ、重い恩賞を賜わったんじゃ。関羽はその贈り物を封印し、手紙を捧げて決別を告げ、劉備の下へ向かうんじゃな。曹操は「彼は彼なりに主君のためにしているのだ、追ってはならぬ。」と言ったんじゃよ。関羽も潔く気持ちの良い男じゃし、曹操も器の大きな人物じゃのう。
諸葛亮が加わった頃
諸葛亮が陣営に加わり、劉備と親交を深めるにあたり、関羽と張飛は不機嫌になっていくが、劉備は「わしに孔明が必要なのは、魚に水が必要なようなものだ。諸君にはもう二度と文句を言わないで欲しい。」と言ったんじゃ。これにより関羽と張飛は二度と文句を言わないようになったんじゃ。潔い話じゃのう。
益州平定後
劉備は益州を平定すると、関羽を荊州の軍事総督に任じたんじゃ。
関羽は馬超のことをよく知らなかったので、どの程度の才能で誰に匹敵するかを聞くんじゃな。その返書は上に書いた通りじゃな。諸葛亮の返書の内容に、関羽は大喜びして来客に見せびらかした、とあるんじゃよ。
こういうちょっと単純なところが関羽にはあるんじゃな。呂蒙が病気になったと言い、療養のため本国に戻った時に、後任として陸遜が荊州に赴任するんじゃが、陸遜が言葉を尽くし遜った手紙を関羽に送ったことで、関羽はすっかり機嫌を良くし、また陸遜を汲みし易し、と軽く見て呉への警戒を解いてしまうんじゃ。これが関羽最大の敗因となる訳じゃな。
魏呉に対する策略
215年頃、関羽は安成県の長の呉碭や中郎将の袁龍が関羽と結んで反乱を起こし、とある。関羽はこういう細かい扇動とかはよくやっておる印象があるのう。
また、関羽の勢いを頼んで漢の大医令の吉本が小府の耿紀、司直の韋晃等と共謀して反乱を起こしたんじゃ。彼等は丞相長史の王必の陣営に火を放ち、もし王必を殺せば献帝を抱えて魏を攻め、劉備(関羽)の援助を求めようとしたんじゃ。
しかし王必は典農中郎将の厳匡と共に討伐して彼等を斬ったんじゃよ。
218年10月に宛の守将の侯音が反乱を起こし、南陽の太守を捕らえ官民を強制的に支配し、宛に立てこもるんじゃ。この時に関羽と手を結び援助を求めるんじゃが、曹仁が宛を包囲し219年正月に宛を落とし、侯音を斬ったんじゃよ。関羽一歩届かずじゃな。
また218年には司州河南尹の陸渾で孫狼も反乱を起こしたんじゃ。孫狼は南方の関羽に服属したんじゃよ。関羽は彼等に官印を授与し、武器も支給したんじゃよ。
関羽の抱えた問題点
関羽は兵卒を厚遇したが、士大夫には傲慢であった、ということじゃな。誇り高く負けん気が強いのも良いんじゃが、晩年の関羽はそれが悪い方向に出てしまったようじゃ。
黄忠が関羽と並び、後将軍と任じられた時に腹を立てて、「大の男が、絶対に老兵と同列にはならんぞ。」と言ったのは有名な話じゃな。
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雑談ぢゃ
大体関羽に関しての評価やエピソードは以上のような感じじゃ。
評価の方ですが、廖立って方の評価は酷いですね、ほとんど悪口じゃありませんか。
そうじゃの。じゃが実はここに関羽の軍運用の仕方の秘密が隠されておると、ワシはにらんでおるんじゃ。
どう言うことでしょうか、聞かせてください。
うむ、その前にお主関羽の評判を聞いてどんなイメージを持ったかの?
そうですね、その勇猛さで軍を引っ張ってくれるような指揮官、と言った感じでしょうか?ただ自尊心が強すぎて負けん気が強すぎるのが問題でしょうか。
そうじゃな、ワシもそう思う。この時代の指揮官と言えば通常は後曲に本陣を置き、全体を見渡して状況を把握するように努めるのが本来の役割なんじゃ。
じゃが一部部隊長からの叩き上げ武将の場合、自らが前線の方に立ち、自らが軍を引っ張ろうとするタイプの指揮官もいるんじゃ。
代表的なのが関羽や張遼、呂布等じゃな。公孫瓚もそれに近いタイプと思うぞい。彼らの共通点はいずれも少数の兵で大軍を撃退したり、その勇猛さが知れ渡っている、などじゃな。
前線指揮官タイプが後曲司令官タイプとどう違うのか、少し詳しく教えてください。
うむ、前線指揮官にはメリットとデメリット両方があるんじゃよ。メリットは勇猛な将が前線に出ることで部隊の士気が上がる。特にその指揮官が兵士たちからの人気が高ければ、皆必死に戦うようになるんじゃ。
デメリットは・・・やはり負傷や戦死などリスクが高まることと、軍全体を把握しづらくなることじゃろうな。
じゃからこういう軍はこちらから攻勢をかけるようにしておかねばならず、敵からの攻撃を受けるような立場になってはイカン、と言うことじゃな。
そう考えると、関羽はどちらかと言えば、自らが陣を敷き、敵陣と対峙するよりは遊撃部隊とかを率いて敵陣を奇襲する役割を担わせた方が得策、と言うことですか。
そうじゃな、実際正史でも関羽は劉備と別に軍を率いる役割を担うことが多かったんじゃ。まあこれは別に奇襲のため、と言う訳ではなく、単に劉備の手が回らないところを関羽に助けてもらっておった、と言うことも多いんじゃがな。
なるほど、関羽の武将としての傾向が見えてきた気はしますね。
うむ、さて少し長くなってしまったのう。今回はここまでじゃ。次はちょっと変わったエピソードや能力評価をするぞい。
次も見てくださいね、それではまたです。