さて、今回は沮授じゃな。かなり優秀な人物じゃが字は伝わっておらんのじゃよ。生年は不明、没年も恐らく200年だと思うが、正確なのは不明じゃ。
袁紹陣営を代表する参謀の一人として演義では有名な彼じゃが、史実での彼はどんな人物じゃったか、見ていくとしようかの。
さて、今回は沮授じゃな。演義じゃと袁紹軍の二大軍師の一人じゃな。
もう一人は田豊ですよね。ですが正直どこまで優秀なのか、あまり出番はないので、ちょっとわからないんですよね。
うむ、そうじゃな、これはあくまでも個人的な意見じゃが、見ようによっては諸葛亮や周瑜、魯粛辺りの呉蜀を代表する人物にも匹敵する、と言ったらどうじゃ?
本当だとしたらすごいですね。でもそれでも袁紹は負けてしまうんですね。
うむ、それはいろいろな事情があるからのう。さてそれでは紹介しようかの。
人物紹介
若き日の沮授
『献帝記』によると、沮授は広平の人物で若い時から大志を抱き、なかなかの策略家であったらしいんじゃよ。出仕して州の別駕となり、茂才に推挙されておる。また韓馥が冀州牧になると再び別駕に任じられ、騎都尉にも任じられたんじゃ。その後袁紹が冀州牧になると改めて沮授は招聘されたようじゃな。
袁紹への大計
沮授は袁紹に仕えると今後の方針を進言したんじゃ。要約すると
「冀州の大軍を保持し、将軍はの威光は河朔を震撼させ、名声は天下に重きをなしています。
四方の賊も将軍が赴けば必ず滅ぼすことができるでしょう。蛮族を震え上がらせれば匈奴は必ず屈従するでしょう。
黄河の北方で暴れまわり、冀、幽、青、并の四州を併合され、英雄の才を持つ人物たちを収攬し、百万の軍勢を擁して天使のみくるまを長安よりお迎えし、天子の宗廟を洛陽に再興して天下に号令され、それでも服従しない者どもは討伐なさいますように。
このようにして戦場に臨めば手向かうものなどどこにおりましょうか。数年もたたない内に難なくこうした功業が樹立されるでしょう。」
これは後に曹操が実際にやったことなんじゃよ。
このガイドラインを示したのは荀彧で、沮授の政略構想は荀彧の考えとも一致しており、諸葛亮や魯粛の提唱した天下三分の計にも匹敵する大計を提示しておるんじゃ。
政治、政略家として超一流であり、袁紹もこの進言を大いに良しとして、沮授を監軍・奮威将軍に任命したんじゃ。これにより沮授は政治のみならず、軍事面でも袁紹軍の総司令官の立場となる。
これは赤壁時の周瑜や、北伐時の諸葛亮にも匹敵するぐらいの軍権を持っておったことになるんじゃ。そして沮授はその才能をいかんなく発揮し、公孫瓚を滅ぼして、後の呉や蜀をも凌駕するほどの勢力を築き上げることに成功しておるんじゃよ。
袁紹陣営を代表する宰相、と言っても良いのではなかろうか。
袁紹とのすれ違い
『献帝記』によると、袁紹が曹操を攻めようとした時、沮授と田豊はこれを諫めて言ったんじゃ。
「出兵が何年も続き、民衆は疲れ、倉庫には蓄えがなく、役務がさかんに行われております。これは我が国にとっての心配事です。
まず使者をやって天子さまに戦利品を献上し、農業に力を入れ、人民を安楽になさるべきかと存じます。もし天子さまに連絡できなかったときは、曹操が邪魔をしていると上奏なされませ。
その後黎陽に進駐し、時間をかけて河南の経営につとめ、船舶を増産し、大小の武器を修繕し、精鋭の騎兵をつかわして辺境地帯を荒らし、連中に安定を保つことをできなくさせておけば、三年以内に、事は居ながらにして定まるでしょう。」と進言するんじゃ。
しかし審配らの積極攻勢策を袁紹は採用するんじゃよ。またこの時郭図が軍政両面で、袁紹と同等の権限を一人の配下が持つことの危険性を訴え、その結果沮授は政治面の発言権は奪われたに等しく、軍権も縮小されてしまったんじゃ。
諸葛亮や周瑜に大権を与えた劉備や孫権と、あくまでも袁家に権力を集中させようとした袁紹との違いが、この辺りに見て取れるのう。これはどちらが正しいと言う訳ではないがの。君主権力と言うのは集中させすぎても分散させすぎてもいかんのじゃ。
曹操は実際曹氏、夏侯氏中心で構成しているが、それでも曹叡の辺りまで特に問題はなかった訳じゃからな。
じゃが袁紹の場合は配下の権力を削ぐことに躍起になりすぎて、しかも袁紹死後に親族同士で権力争いを起こしたことが問題じゃったのう。もう少し袁尚の権限をはっきりさせておけばよかったのかもしれんが、それができないぐらいの急死だったのかもしれん。
ちとながくなりそうじゃの、いったんここで切ることとしようかの。
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雑談ぢゃ
さて、沮授についてじゃがどう思うかの?
師匠がかなり沮授を買っていることはわかりました。それと史書での進言を考えると、そう言いたくなるのもちょっとわかるような気がします。
うむ、よく言われることじゃが、戦場での策略がどれだけ優れていても、もっと大きな戦略を覆すことは難しく、優れた戦略もさらに大きな枠組みの政略を覆すことは難しいんじゃ。
何となくは分かるのですが、もう少し具体的な説明をお願いします。
そうじゃな、分りやすい例でサッカーで話してみるとしようかの。
個人技に優れた選手がおり、その選手が相手の裏をかいたプレーで試合を優位に進めることができる。これを戦術としよう。
はい。
じゃが個人での戦いにはおのずと限界がある。1人で11人の選手を抜き去って点を取ることなぞ不可能じゃからな。他の10人との連携は不可欠じゃろう。そこでチームとしての戦い方を決めていく、守備的に戦いカウンターを狙うのか、積極的に攻勢をかけ、相手を振り回して主導権を握るのか、先の個人技を戦術とするなら、これは戦略と言えるじゃろう。
はい、わかります。
しかし優れた戦い方を考案したとしても、選手たちのコンディションが整わないのでは意味がなくなってしまう。如何に選手たちの体調を整え、ベストコンディションで戦えるようにするか。その辺りが政略、と言えるんじゃよ。
なるほど、能力が十全に発揮できなければ、優れた戦い方も意味をなさない。だから戦略で政略を覆すことは難しい、と言うことですね。
そう言うことじゃな。まあ見方によって、戦術、戦略、政略の範疇は変わってくるから、そこは注意が必要じゃがの。
一般的にサッカーでは、守備的な戦い方とかが戦術って言われますもんね。
うむ、比較しやすいから敢えて上のように書いただけじゃからな。
話は戻りますが、その政略にあたる部分を沮授は提示した、と言うことですね。
そう言うことじゃな。しかも政略だけでなく先見力も高く、軍の指揮官としても優秀じゃ。
政治家としても司令官としても優秀な人物としては曹操や魯粛、諸葛亮などが挙げられるが、沮授もその一角に食い込めるだけの人材と言えるのではなかろうか。
先ほどの政略とかの話を聞くと分かるように思います。
しかし三国志14もやりたくてうずうずしておるが、時間がないのう。
いきなり話しぶっ飛ばしましたねwwダビスタもやっていますし、ブログも書いていますからね。でも嬉しい悲鳴なんじゃありませんか?w
まあそうじゃな、時間だけ足りんのが残念じゃ。さて今日はここまでじゃな。
次も沮授の続きですね。また見てくださいね。
1⃣・2⃣