さて、張郃の紹介3回目じゃな。
ここでは自分が張郃の戦いで気が付いたこと、張郃に対する評価、評判、能力評価などをまとめてみるとしようかのう。
人物紹介
さて、今回は張郃の紹介3回目じゃな。
今回で終われそうなんでしょうか?
うむ、一応、今回で終わる予定じゃ。今回は張郃の最後、それと彼に対する評価、評判と軍事以外の主なエピソードについて語るぞい。
張郃の最後の謎
最後の木門の戦いじゃが、『魏略』によると諸葛亮が退却すると、司馬懿は張郃に追撃を命じたんじゃ。張郃は「兵法には包囲した城には必ず逃げ道を開けておく。(敗走ではない)退却の軍はうかつに追撃してはいけない。」と追撃を反対するんじゃ。しかし司馬懿はこれを聞き入れなかったんじゃ。
じゃがこの時の張郃は征西車騎将軍と、司馬懿に次ぐ魏軍の最重鎮じゃ。本来追撃させるべき武将ではないと思うんじゃがな。この辺りから司馬懿は裏があって張郃を陥れようとしたのでは、と言う話もある。まあワシは単に司馬懿のミスじゃと思っておるがの。
そしてここで諸葛亮の伏兵の矢が腿に当たり、その傷が元で亡くなった、とあるんじゃ。じゃがここの記述も色々とおかしいんじゃな。
『蜀志』諸葛亮伝
「231年諸葛亮はまたしても祁山に出撃し、木牛を使って輸送を行ったが、食料が尽きて撤退した。魏の将軍張郃と合戦し、張郃を射殺した。」
『晋書』宣帝紀
『魏志』張郃伝
「張郃は後を追って木門まで来て、諸葛亮の軍と交戦した。飛んできた矢が張郃の右膝に当たり、亡くなった。」
『魏略』
「蜀軍は高台に登り、伏兵を用いて弓と弩を乱射し、矢は張郃の腿に当たった。」
『魏略』(別の個所)
「諸葛亮が祁山を包囲したが勝利を得られずに退却した。張郃はそれを追撃して、流れ矢の命中するところとなり、死んだ。」
ほとんどの書物とかネットの意見を見ると、諸葛亮が追撃に来た張郃を撃破して、彼を殺害したように書かれているんじゃ。特に晋書は信用できないという意見もあるが、史書をそのまま読むと例えば、
「司馬懿の命に逆らうこともできずに張郃は仕方なく追撃を始め、蜀軍と乱戦になった。(晋書によれば)張郃の優れた采配もあり、魏が押し気味に蜀を攻めていた。しかし運悪く流れ矢が張郃の腿に当たった(魏略の記述)ことにより魏軍は撤退し、蜀軍も何とか退却できた。」
このように、追撃で蜀軍を追い詰めていた、と言う風に読み取れんこともないんじゃ。ついでに蜀軍が勝っていないのでは、と感じるのは、同じ蜀志の諸葛亮伝の別の記述からも伺うことができるんじゃよ。
『蜀志』諸葛亮伝
「228年冬、諸葛亮はまたしても散関から出撃し、陳倉を包囲したが、曹真がこれを防ぎ、諸葛亮は兵糧尽きて帰還した。魏の将軍の王双が追撃したが、諸葛亮は一戦を交えてこれを破り、王双を斬り殺した。」
こちらでは明確に王双の軍に勝利した旨が書かれておる。三国志の著者の陳寿は各人の伝では、その人にとって不利なことはあまり書こうとしないようにしておる。逆に功績となることは積極的に書くんじゃ。しかし王双と違い張郃の追撃に対しては勝利と書けなかった。一方の張郃も本人が結局戦病死(おそらく失血死、ヤン・ウェンリーと同じ)ために勝利とも書けなかった。このことが何か奥歯にものが挟まった、少し言葉を濁したような書き方になったのではなかろうか。
張郃に対する評価
曹操
「(君が降ったのは)微子が殷を去り、韓信が漢に帰服したようなものであろうか。」
(微子は殷最後の皇帝、紂王の庶子で彼をいろいろ諫めるんじゃが聞き入れられず、身の危険を避けるために、殷から去った人物。韓信は前漢三傑の一人、おそらく中華史でも間違いなく上位に数えられる名将。)
郭淮(夏侯淵戦死後)
「張将軍は国家の名将であり、劉備に恐れられている。今日事態は切迫している。張将軍でなければこの事態を落ち着かせることはできぬ。」
劉備(『魏略』より夏侯淵殺害後)
「一番の大物(張郃の首)を手に入れなければならぬ。こんなことでどうする。」
法正
「今、夏侯淵・張郃の才略を推し量りますに、国家の将帥を担いきれません。軍勢をこぞって討伐に赴いたならば、必ず勝つことができましょう。」
曹叡(『魏略』により張郃死亡後)
「蜀がまだ平定されない内に張郃は死んだ、いったいどうすれば良いのじゃ。」
陳羣(『魏略』により張郃死亡後)
「張郃はまことに良将で、国家の頼りとする人物でした。」
陳寿
「張郃は変化の法則をわきまえ、良く陣営を処置し、戦争の状況・地形を考慮し、計略通りにいかないことはなかった。諸葛亮以下皆彼を恐れ憚った。」
張郃に関する他のエピソード
張郃の出自について
張郃は河間郡鄚県の出身となっておる。実は河間郡鄚県の張氏と言うのは、秦末から前漢にかけて生きておった張耳の子孫と言っておるらしいんじゃ。別の説によると前漢三傑の一人、張良の子孫とも言われておる。
後漢に張超と言う学者、文士がおったんじゃが、彼は河間郡鄚県の張氏として有名なんじゃ。中国版のWikiによると、張郃はその張超の族子と言うことらしい。出典がはっきりしないのが残念じゃが、それが本当だとすると、張郃は学者系統の一族の出身者、と言うことになる。
実際、彼の字の「儁乂」と言うのは古典の一節から採られており、学のある家の人間でなければ、なかなか付けられん字なんじゃよ。儁と乂どちらの文字も、優れた人物、統治者、と言うような意味があり、付けた人物の期待の高さを感じる字じゃな。
張郃自身学問が好きで、儒学の士をかわいがり、同郷の卑湛を学者として推薦するんじゃ。こう言うのも彼がただの武辺者とは違う、と言うことを示していると思えるのう。
さて、色々書いたが、張郃の紹介はここまでじゃな、続いて能力評価と行こうかの。今回は全作品に出ておるぞい。
能力評価
張郃はほぼ全てに渡り実績を残しておるオールラウンダーとして評価できるため、軍事、統率、知謀全て高い評価をできる人物じゃ。
しかも学者として同郷の人物を推薦するなど、軍事のみの実績でもないため、政治もそれなりに評価できると言えるじゃろう。人格的な問題も見当たらず、欠点があまりないんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、張郃の能力評価じゃ。
こうやってみると天舞さんは関羽とかと互角ぐらいの評価になってるんですね。それと鄭門さんは関羽とか蜀の武将に比べる統率とかが高いですね。
うむ、こうやってみると実は三国志14が一番評価が低い、とも言えるかもしれんのう。
師匠の評価は関羽や張飛とかと比べると統率の分、少し抜けている感じですね。
そうじゃな、関羽や張遼等は第一世代の世代の真の強さを示すまではいかんかったからのう。
?どういうことでしょうか。
うむ、基本的に第一世代の武将達と言うのは、都督級の働きを残せた人物がほとんどいないんじゃ。基本は部隊長から一将軍の役割までで終わっておる。
関羽がかろうじて、荊州で都督級の役割を担っていたぐらいですね。
うむ、それと魏じゃと于禁ぐらいなんじゃが、関羽は結局他の武将との軋轢により失敗してしまっておるし、于禁も水害の被害で結果を残せんかった。
結果として都督級としても優秀だったと、叩き上げだった彼らの優秀さを証明するための、最後の生き残りが張郃なんじゃよ。
そう言うことですか、確かに大軍を率いても結果を残していますからね。
そう言うことじゃな。多分鄭門さんとかもそういうことを理由として張郃の統率を高くしてるんじゃと思うぞい。
史実の実績を考慮すると、三国志14はもう少し知力は高くして欲しいんじゃないですか。
うむ、オールラウンダー故、軍事と統率は自分もそこまで極端に高くはしないが、その分知力はいつも底上げしておるぞい。
いつか師匠の願うような評価になるといいですね。
弟子よ、たまにはおぬしもいいこと言うのう。
たまには、は余計ですね。それで師匠、語りつくして満足しましたか?
そうじゃな、また長くなって申し訳なかったのう。張郃の紹介はこれで終わりじゃ。
次は別の方になります。良ければまた見てくださいね。