三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

田豊(でんほう) 字:元皓(?~200)その2

さて、今回は田豊の2回目じゃ。沮授同様、徐々に田豊にも暗雲が立ちこめてくるんじゃよ。今回は官渡前の彼の状況、そして能力評価を行うとしようかのう。前回は下のところから見れるぞい。

 ・田豊紹介その1

 

さて、今回は田豊の二回目じゃな。彼も沮授同様、序盤は袁紹の信任を得て、その才能をいかんなく発揮したが、ここから彼の運命は暗転していくんじゃよ。

沮授の時もちょっと思ったんですが、田豊ぐらいの知者であればそれぐらいの危機は回避できそうに思うのですが、無理なんでしょうか?

無理じゃな。田豊自身の問題だけならどうとでもなるじゃろうが、これは相手のおることじゃ。

ぶっちゃけ、参謀自身がどれだけ優秀でも、君主との相性が悪い、または君主が参謀に対して全幅の信頼を持てなくなったらどうしようもないんじゃよ。

はあー、そんなものですか。

うむ、簡単な例で言うと、お主楚漢戦争は知っておるか?

項羽と劉邦、ですよね。項羽がすごい強いですよね、最後は負けちゃいましたが。

うむ、その項羽陣営に范増と言う参謀がおったのを覚えておるか?

結構なお爺ちゃんですよね。最後は項羽に疑われたことで項羽の下を辞していましたよね。

そうじゃ。あれは劉邦陣営がしかけた策略によるものじゃったろう。范増なら事情が分かっていおれば、その辺りも見通せたかもしれんが、項羽の方が范増を疑ってしまった。

なるほど、一旦片方が不振を抱いてしまうと修復が非常に難しいということですね。

そう言うことじゃな。田豊の場合も結局、袁紹が遠ざけて意見を入れんようになってしまった。

人間関係は難しいですね。

まあ田豊も頑固なところがあるでのう。さて脱線が多くなってしまったが、残りの紹介と行こうかの。

人物紹介

官渡の戦い直前

200年に曹操が徐州の劉備を攻める時も曹操の後方を襲うように進言したんじゃが、袁紹は息子の病気を理由に拒絶したんじゃ。田豊は杖を振り上げ地面をたたいていった。「またとない機会に遭遇しながら、赤子の病気でその機会を逃すとは何と残念なことよ。」

献帝伝』によると袁紹が許へ向けて遠征しようとした時、沮授と田豊が諫めるんじゃ。田豊は「曹操は軍兵を巧みに操り、千変万化の術を弄します。軍勢は少数と言っても侮ることはできず、持久戦に持ち込むに越したことはありません。将軍は自然の要害を抑え、四州の軍勢を抱えて外は英雄と手を結び、内は農事と兵事を整備なされ、その後で精鋭を選び、奇襲部隊をいくつも編成し、敵の虚を突いて交代で出動させて、河南を混乱させます。敵が右方を救援すれば左方を攻撃するというように、敵軍を右往左往させて疲労させ、民衆が生業に安んじていられぬように仕向ければ我が方は何の苦労もなしに、相手はへとへとになり、二年もたたぬうちに居ながらに勝利できるでしょう。今、中央でめぐらす勝利の策を捨てて、一戦で勝敗を決定されるおつもりですが、万が一思い通りにならなかった場合、後悔しても追いつきませんぞ。」

じゃが袁紹はこれを聞き入れないばかりか、必死に諌言する田豊に激怒し、兵士の気勢をくじくものとして枷にはめて、牢獄に放り込んだんじゃ。

官渡の戦い

『先賢行状』によると袁紹軍が敗北した時、雪崩を打って敗走し、軍勢はほとんど全滅したんじゃよ。兵士たちは皆胸をたたいて泣き「もし田豊がここにいたならば、こんなことにはならなかっただろうに。」と嘆いたんじゃ。

袁紹は逢紀に向かって「冀州の人々は、我が軍の敗北を知れば、皆わしのことを案じるに違いない。ただ田別駕(田豊)だけは以前わしを諫め、一般のものとは違っていた。わしは彼と顔を合わせるのが恥ずかしい。」と言うと逢紀は「田豊は将軍の退却を聞いて、手を打って大笑いし、自分の言葉が的中したのを喜んでいました。」と言うんじゃ。この辺りはどうしようもないのう・・・。

そして田豊は処刑されてしまったんじゃ。

袁紹が敗北した後、あるものが田豊に「あなたは必ず尊重されるでしょう。」と言ったところ、田豊は「もし戦に勝ったのならわしも生命を全うできたに違いないが、今戦に負けたとなれば、わしは殺されるだろう。」と自分の運命すら読み切っておったんじゃ。何とも悲しい話じゃな。

田豊に対する評価

曹操(官渡後)

「もし袁紹が田別駕の計略を採用していたなら、どうなっていたかわからない。」

孔融

田豊と許攸は知謀の士であって、袁紹のために計策をを立てている。」

荀彧

田豊は剛直で上に逆らう(からその計策は聞き入れられない)。」

孫盛

田豊と沮授の計略を観察すると、張良や陳平(どちらも前漢劉邦陣営の謀臣)と言えども、どうしてこれに勝ることがあろうか。」

 

最後の孫盛(350年ごろ活躍)は三国志の後の時代の東晋に仕えた政治家であり、歴史学者でもあるんじゃよ。裴松之の注釈に出てくる魏氏春秋の著者であり、三国志の時代に魏に仕えておった孫資と言う人物の子孫でもあるんじゃよ。

さて、田豊が優れた人物であったのは分かったと思うところで能力評価へ行くとしようかのう。今回は全作品に出演しておるぞい。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 田豊(20歳)  75 60 145 110
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓↓ ↓↓
 田豊(45歳)  106 90 183 145

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演義では沮授と田豊は二大参謀とされておるが、実際両者の役割は少し違っておる、沮授は監軍として軍の統括までやっておったのと比べると田豊は純参謀、と言う感じじゃな。

そのため、張郃や沮授ほどオールマイティと言う感じではないんだが、その分知謀に特化した評価となっておる。本来政治ももっと高くても良いんじゃが、剛直で他社と折り合いが悪く、讒言を受けておることから多少抑えておるぞい。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 田豊  72 29 93 87 68

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 田豊  1 2 13 12 9 8

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 田豊  9 11 24 20 17

 

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雑談ぢゃ

さて、田豊の能力評価じゃな。

沮授と比べるとどの作品も田豊の方が知力、策略は上になるんですね。

そうじゃな。やはり沮授がオールマイティに色々やっておるのと比べると、より参謀職に特化したタイプと見られるからの。やはりその分、知力関係を高く評価したくなるのじゃろうな。

ですが、コーエーテクモさんは統率も高めですね、他は師匠の分も含めて統率関係は抑え目ですけどね。

そうじゃな。彼のような純参謀タイプは統率はそこまで上げる必要はないと思うんじゃがの。まあこの辺りは沮授との対比で上げてるのかもしれんの。

今気が付いたのですが、沮授、張郃、審配、田豊がいることで、これ劉備陣営とも良い戦いできそうですね。

そうじゃな、それぞれ劉備関羽張飛、田豫と比較しても良い勝負になるんではなかろうか。勝った方が負けた方を吸収することで、袁紹曹操辺りとも良い勝負ができそうな軍団が仕上がりそうじゃ。

一度そういうシチュエーションで軍団の組み合わせを見てみたいですね。

そうじゃな。なかなか贅沢な悩みとなりそうじゃのう。さて、今日はここまでじゃな。

次も見てくださいね、それではまたです。

 

1⃣・2⃣