三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

鮑信(ほうしん) 字:不明(152~192)

さて、今回から新しい州、新しい勢力の紹介じゃな。まず最初に紹介するのは兗州で済北の相になっておった鮑信じゃな。字は不明じゃが192年に亡くなった時が41歳と言うのが分っておる。

演義では目立たない、と言うかあまり良くない役回りじゃった気がするが、彼は三国志を語る上で非常に重要な人物なんじゃよ。

 

さて、今回は鮑信じゃな。一応演義には出ておったからおぬしも知っておるじゃろう。

覚えてますけど、確か抜け駆けして弟を戦死させたとかじゃなかったでしたっけ。そんなに重要な人物なのでしょうか?

ふむ、やはりそんな印象になるか。演義被害者の会会員の一人じゃな、彼は。

と言うことは演義でだいぶ改変された人物と言うことですね。

そうじゃな、演義三国志の大きな流れを見る上で、非常に優れた書物と言えるじゃろう。

じゃが話を分かり易くするために細かい部分、特に人物像などは大きく改変されておる。これは主役脇役限らず、じゃな。

でしたら彼の事績について説明をお願いします。気になるじゃないですか。

うむ、それでは早速行くぞい。

人物紹介

鮑信と言う人物

さて、鮑信についてじゃが、彼は漢の司隷校尉であった鮑宣の八世の孫にあたるんじゃ。鮑家は代々儒学の教養によって有名な家系でのう。鮑信もそんな家で育ったためか、若くして人のふむべき節義をわきまえ、寛大で人を愛し、沈着剛毅にして知謀があった、と言うんじゃ。

その後、鮑信は中央に仕えて、騎都尉に任じられておったんじゃ。この時鮑信は何進の命によって東の方へ兵の募集のために派遣されたんじゃ。各地で1000人以上の兵を集めて戻ってきた鮑信じゃが、中央では政変が起こり、董卓が洛陽に入った直後だったんじゃ。そしてここから鮑信の観察力、見識の高さが発揮されていくんじゃ。彼の人生はこの後もう何年も残っておらん。じゃが閃光のようなわずかな期間に彼が残したものは非常に多大で濃密なものじゃった、と言えるじゃろう。

董卓への対処について

洛陽に入場した董卓に対し、急ぎ鮑信は袁紹に進言するんじゃ。「董卓は強力な軍隊を擁し、異心を抱いております。今早く手を打たなければ、将来彼に制圧されるでしょう。来たばかりで疲労している内に襲撃したならば、生け捕りにすることができるでしょう。」

実際この時、董卓が率いておった兵力は3000程、恐らく丁原らと協力して不意を突けばチャンスはあったと思うんじゃ。じゃが、袁紹もさすがに董卓の威勢に恐れたのか事を起こせんかったんじゃ。そのため鮑信はらちが明かないと判断したのか、郷里に帰ったんじゃな。

董卓連合軍での邂逅

郷里に戻った鮑信は二万以上の兵を集め、反董卓連合軍に参加するんじゃ。『魏書』によると、当時は袁紹の軍勢が最も威勢があり、豪傑どもには彼になびくものが多かったが、鮑信だけは曹操に向かって言ったんじゃ。「そもそも世にまれな知略を抱き、良く英雄を統率して乱をおさめ、あるべき姿にかえされる方は君であります。いやしくもそれに値する人物でなければ、強力であっても必ず滅びるものです。君はまずは天の導きたもうお人でありましょう。」

まだ名を成していない時期にここまで言えるというのも、なかなかすごいことじゃと思うぞい。曹操も親蜜感を抱き、鮑信を高く評価したんじゃ。

しかし肝心の連合軍は宴会ばかりで一向に動こうとしない。それにしびれを切らした曹操と鮑信は鮑信の弟の鮑韜と董卓軍に攻撃を仕掛けるんじゃ。

じゃがこれは董卓軍の名将徐栄によって打ち破られるんじゃ。この時は曹操も逃げるのに精一杯、鮑信も傷を受け、鮑信の弟の鮑韜は戦陣にて戦死したんじゃよ。それぐらいの惨敗だったということじゃな。それでも徐栄も連合軍侮りがたしと判断し、そこからの追撃は控えたようじゃ。

袁紹戦略の開陳

この後、袁紹冀州牧となった時、鮑信は曹操に以下の方針を提示するんじゃ。

「姦臣(董卓)が王室を覆しましたが、英雄達が忠節を尽くさんと奮い立ち、天下の人々が呼応しているのは、それが正義であるからです。現在袁紹は盟主となりながら、権力を利用して利益を独り占めしており、今にも動乱を引き起こそうとしています。これは更にもう一人の董卓が存在することです。

今彼を抑えんとしても、こちら側に制御できる力はありませんから、ただ災難を引き起こすだけで、どうして成功できましょう。まずは黄河の南(兗州、豫洲)に手を付け、彼に変事が起きるのを待つのが良いでしょう。」

荀彧や沮授の天下統一戦略、諸葛亮魯粛の天下三分の計と比べても恐らくそん色ないであろう戦略じゃな。曹操もこれを善しとして受け入れるんじゃよ。

青州黄巾賊との戦い

192年、青州黄巾賊が兗州に侵入したんじゃ。この時期兗州の刺史は劉岱だったんじゃ。彼は黄巾賊を攻撃しようと考えるが、鮑信はこれを諫めるんじゃ。

「今、賊の軍勢は百万、人民は皆恐れおののき、士卒は戦闘意欲をなくしており、相手に敵いません。賊の軍勢を観察すると、秩序もなく仲間同士が雑然と連なり、軍には輜重もなく、ただ略奪によって糧を得ているだけです。今は軍士たちの力を蓄え、まず守りを固めるのがよろしいかと存じます。やつらは戦いたくても戦えず、攻撃してもまたうまくいかず、なりゆきからいって離散するに違いありません。その後で精鋭を選び、要害の地を占拠し、やつらを攻撃すれば破ることができるでしょう。」

的確な情報処理と対処法だったんじゃが、劉岱はその進言に従わず、黄巾賊を攻撃し、戦闘に敗れて殺害されてしまうんじゃよ。

曹操の登場そして・・・

そこで鮑信は州吏の万潜らとともに東郡に赴き、曹操兗州の牧を引き受けさせるんじゃよ。ここから曹操飛躍が始まった、と言えるじゃろう。じゃがここから運命は大きく暗転する。

この後、曹操は賊兵が勝利をいいことにおごり高ぶっていることから、奇兵を伏せて挑戦しようとし、攻撃ポイントを寿張と考え、鮑信と共に先に陣を出て戦場を視察したんじゃ。その時偶々賊軍と遭遇してしまったんじゃな。曹操側はまだ歩兵部隊も到着していないような危機的状況での白兵戦じゃ。

鮑信はそれこそ命を賭して戦ったんじゃよ。それにより曹操は何とか包囲網を破り脱出できたんじゃが、そこまでじゃった。

鮑信は包囲網から脱出できずに力尽きてしまったんじゃ。曹操はせめて彼の遺体をと、賞金を出してまで求めたんじゃが、ついに見つけ出すことはできんかったようじゃ。そこで人々は鮑信の姿に似せて木を掘り、それを祭って哭礼を行ったんじゃよ。

元々後漢の動乱に遭遇したことで旗揚げしたが、鮑信自身は儒学を修めた家柄じゃ。彼自身は節倹そのものの生活を送り、将兵を手厚く遇し、住居に財産を残さなかったと言う。士人達は皆、彼に非常になついたそうじゃ。

彼の見識の高さと、曹操のために何度も体を張って弟を失い、最後は本人も命を燃やして曹操を救った。曹操にとって得難い人物の一人を失った最初の出来事、と言えるのではなかろうか。

彼の記録が残っておるのはわずか4年ほどじゃが、曹操の飛躍を支えた重要な人物なんじゃ。それに対する扱いがあれとは、演義も罪なことをするもんじゃ。さて、続けて能力評価と行こうかのう。今回は全作品に出演しておるぞい。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 鮑信(20歳)  60 95 100 125
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓ ↓↓↓
 鮑信(45歳)  90 128 134 161

f:id:kumajisan:20201226043833p:plain

 

演義では不遇の扱いを受けておるが、実際の彼は非常に優れた才能の持ち主であったと言えるじゃろう。董卓軍の弱点を見破り、曹操の素質を見抜き、袁紹の危険性と対抗するための方針を提示すると、ほぼ文句なしの人材と言えるじゃろう。

また曹操を守るため死地で何度も戦ってくれた。これでも早くに亡くなったためか、立伝されておらんのじゃよ。何かもやもやする話じゃのう。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 鮑信  77 67 81 73 83

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 鮑信  4 6 5 4 3 9

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 鮑信  8 9 6 12 13

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

 

雑談ぢゃ

さて、鮑信の能力評価じゃな。

師匠の言うように優れた人物だったのですね。三国志14はそのイメージに近い能力になっているんじゃないでしょうか。

そうじゃな。じゃが他の蜀の武将とかが演義順序で能力を設定しておるのじゃから、ワシとしてはいろいろともやもやするんじゃな。それじゃったら全員正史準拠で作ればよかろうに。とは言えそれでは人気がでんのじゃろうな。

鄭問さんのは比較的演義のイメージを能力化してると言えそうですね。ですが天舞さんは少し意外でしたね。もう少し高いかなと思っていたので。

ワシも少し驚いたんじゃ、がまあ実働4年ほどに凝縮されておるためかもしれんのう。それでももうちょっと高かった、とワシは思うんじゃがな。

それにしても曹操は何というか本当にいろんな人に支えられているんですね。もう少し孤高の覇王みたいなイメージがありました。

そうじゃな。じゃがこういう出会いと別れが曹操を、例えば詩文での表現の深化に繋がっているようにも思えるのう。

そう言うものですか?詩とかは私は良く分らないのですが。

まあワシもど素人じゃから話半分で良いが、曹操の詩は息子たちの詩と比べると少々生々しい感じなんじゃ。

美辞麗句を並べる精錬された感じでなく泥臭さを感じる、じゃがそれは戦場の悲惨さ、容赦ない現実をたたきつけられておるからこそ、表現できるものではなかろうか。

そしてそれは鮑信のような人材を失ったりと言う痛みを伴っているが故に、と言うことですか。

そうじゃな。今回の鮑信や後の典韋等、そう言うものの積み重ねによって曹操と言う一個の人格は形成された、というのは言い過ぎかもしれんが、個人的にはそう思っておるんじゃ。

そう言う思いがあるから評価もしたくなる、と言う感じなのですね。

そうじゃな、と少々長くなりすぎたようじゃな。今回はここまでじゃな。鮑信は非常に優れた人物じゃ。機会があれば是非使ってやってくだされい。

次もお願いしますね、それではまたです。