三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹操(そうそう) 字:孟徳(155~220)その7

さて、曹操紹介7回目じゃな。

さて曹操の政治面の実績はまだあるんじゃよ。それと文化面への功績も大きい人物なんじゃ余力があればその辺りも紹介していくとしようかのう。

曹操紹介その1(戦歴)

曹操紹介その2(徐州虐殺?編)

曹操紹介その3(魏武注孫子篇)

曹操紹介その4(その他戦役編)

曹操紹介その5(屯田制)

曹操紹介その6(兵戸制・求賢令)

曹操紹介その8(その他・小ネタ編)

曹操紹介その9(遺令・能力評価等)

 

政治内容紹介

さて、今回も政治面の続きじゃな。

まだあるんですね。曹操の引き出しは政治面もすごいですね。

そうじゃな、既に九品官人法が日本に及ぼしておるように、この頃、色んなものが制度化され、その影響を日本は受けているんじゃ。じゃから長くとも少し詳しく紹介していくぞい。

分かりました、よろしくお願いしますね。

戸調制

後漢の租税には田租と算賦と言う二種類があったんじゃ。田租は農業生産物の一部を納付する制度、算賦は銭納税なんじゃ。じゃが後漢王朝末期は貨幣経済が崩壊しており、これは曹操でも立て直すことができんかったんじゃ。

そこで後漢は一部布帛納と言う税制も付け加えらえていくんじゃよ。

そして197年の頃に綿絹の徴収による戸調制が敷かれているような記述がみられるんじゃ。

本格的に戸調制が始まるのは198年から199年頃で、『何夔伝』には「この時曹操は初めて新科を制定して州郡に下し、また税を徴収し、綿絹を課税した。」と言う記述があるんじゃ。この時何夔は自分の統治している地域が平定された直後で、飢饉もあったりしたので、そう言った地域への一時的な減税を曹操に頼むんじゃ。曹操もこれを認めており、この時期から戸調制は本格的に始まっておる。

ちなみにどの程度の税かと言うと裴松之注の『魏書』の公令には以下のように書かれているんじゃ。

「このたび田租を畝ごとに、四斗ずつ取り立て、戸ごとに絹二匹・綿二斤を拠出させるだけとする。他に勝手に徴発することは許さぬ。」

実際には絹や麻布等、地域ごとに生産しているものが違うじゃろうから、絹織物の産地には綿と同額相当の絹を課税しておったと思われるんじゃ。

それと言うのも布帛は細かく裁断した物よりは、ある程度まとまった形の方が価値があるからのう。

そしてこの布帛による納税手段は三国志以降も重視され、唐代の租庸調制にもつながるんじゃ。そしてその税制は後に日本にも伝わり、もちろん国内情勢に合わせるように内容は少し変わっているが、大化の改新後に採用されていくんじゃよ。

新律十八篇

これは厳密には曹操の施策ではないんじゃが、陳羣と言う司馬懿と並ぶ魏の名臣が中心になって制定した法典じゃ。

これは漢から五つの律(刑法)を継承し、そこに十三の新しい律を加え、更に令(行政法)も整備したものなんじゃ。この『新律十八篇』は不完全ながらも、史上初の律令法典だったと言えるかもしれん。

そしてこの『新律十八篇』は晋の時代の『泰始律令』の基礎となるんじゃよ。『泰始律令』は全二十篇あるんじゃが、この内の十三篇は『新律十八篇』より継承されているんじゃ。そしてこの泰始律令の延長上に隋唐の律令制度はあり、それはやがて海をわたって日本にも伝わり、日本の律令制度の基礎となっていくんじゃよ。

九品官人法と言い、この新律十八編と言い、陳羣と言う人物は日本の政治体制に非常に大きな影響を及ぼしておるんじゃよ。

政治面の実績で言うなら、曹操屯田制・戸調制と並んでこの時代では数少ない、教科書に載っててもおかしくない人物と言えよう。曹操も生前から刑法に関しては何度も議論をしておったが、自身の生存中には制定が叶わず、陳羣が後を継いだ、と言う感じになるかのう。さて、続けて文化面の功績を見ていくとしようかの。

文化功績紹介

さて、続けて文化面の功績について少し見ていくとしようかの。

文化と言うと詩文が有名ですが、曹操以前と以後で何が違ったのかが良く分らないんですよね。

そうじゃな、それではちとその辺りについて説明していくとしようかの。

詩賦界への影響

曹操が起こした建安文学じゃが、その中心には詩賦が存在しておるのは間違いないんじゃ。そして建安文学は中国史上で最初の文学活動と言っても良いかもしれん。

詩賦自体はそれ以前からも詠われておったんじゃが、一部を除き、そのほとんどが詠み人知らず、つまり市井の無名の人達が詠うようなものだったんじゃ。

今で言うならそれまで作られた詩賦は、インディーズレベルだったものがほとんどだった、と言う訳じゃな。曹操はその価値を大きく高め、日本で言うなら重要無形文化財と言えるレベルまで引き上げたんじゃよ。

しかも単に詩の地位を引き上げただけではなく、詩の形態も変化させていっているんじゃ。以前は一節四文字の四言詩が中心だったんじゃが、曹操は一節五文字の五言詩をメインにしていくようにしたんじゃ。

たった一文字ずつの追加じゃが、それが深みをもたらす、と言うことで好んだらしいが、これも詩賦の発展に大きく寄与したと思われるんじゃよ。

これにより、隋唐時代に科挙が行われるようになると、科挙の科目として詩賦が加えられるようになったんじゃ。有名な李白杜甫もこの科挙のために詩を学んだ、と言う側面があり、彼らが詩人として名を残せるようになったのには、間接的に曹操が詩賦の地位を引き上げたことと無関係ではないんじゃよ。

曹操自身、同時代では三曹と時代を代表する詩人の一人で、だいぶ散逸しているながらも、今もいくつかの詩賦は残っておる。代表する詩としては『短歌行』、『苦寒行』等があるので興味のある方は調べてみるといいぞい。戦の悲惨さ等を苦寒行では詠い、短歌行では人材を追い求める内容を詠う。また曹操が作った中でも『歩出夏門行』が個人的には好きな詩文じゃが、以下のような文章なんじゃよ。

神亀は命長しと言えども、尚終わる時あり

騰蛇(天に上る蛇、竜?)は霧に乗るも、終に土灰となる

老驥(老いた馬)は馬屋に伏すも、志は千里にあり

烈士は年を暮るるも、壮心已まず(やまず)

命の長短は、天の定めだけにある訳ではない

心身を養うことで、永き年を得ることができる

何と幸いなことか、歌いて以て志を詠おう。」 

死を逃れることはできないが、強い志に年齢は関係ない、今生きていることの何と幸せなことか、さあこの志を歌にして詠おう、と言う感じかのう。

表の意味は上記の通りじゃが多分裏の意味として、強い志を歌として詠う、そうして詩に残した志は永遠である、と言いたいんじゃなかろうかのう。丁度命は有限である、と言う部分との対比として志は無限、と言うことを表しているんじゃと思うぞい。何とも勇壮な詩じゃなかろうか。

そしてこういう詩賦では嘘をつくことはできん。後漢末から三国の時代にかけては、とかく大義名分やら建前を非常に重視する、ちと息苦しい時代であった。そんな閉塞感を打破するために、曹操は己の本音を詩賦に乗せて大いに詠っていたんではなかろうか。何となくそんな気がするぞい。

さて、こんなところで今回はここまでじゃのう。ようやっと終わりが見えてきたぞい。後一回か二回で曹操は終わりそうじゃ。それでは次もよろしく頼むぞい。

 

↓バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

 

1⃣2⃣3⃣4⃣5⃣6⃣・7⃣・8⃣9⃣