若い頃から曹操に従い、曹操の窮地を救ったり、大事な役割を任される等、曹操の信任厚い武将であるんじゃが、癖の強い人物でもある。彼がどんな人物であったか見ていくとしようかのう。
さて、今回は曹洪じゃな。
彼は演義で結構出番がありましたが、大体やられやくのような印象が強いですね。
うむ、史実はそうでもないんじゃが、ちょっと癖のある人物でもある。それが彼を窮地にも追い込むんじゃがな、その辺りを見ていくとしようかの。
人物紹介
曹操との関係
曹操との関係で、従弟と書いてあるが、曹操との関係は曹操の祖父、曹騰の代まで遡るようじゃ。『曹操 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像(山川出版社)』によると、まず曹操の祖父、曹騰は末弟で何人か兄がいたようじゃ。
その兄の内一人の子に曹鼎と言う人物がおり、彼は呉郡太守から後に尚書令になると甥の曹洪を県長に任じた、とあるんじゃ。このことから曹洪は曹鼎の系列の一族と考えられるんじゃ。曹洪の父親の情報はさすがにないようじゃのう。
つまり曹操の祖父と曹洪の祖父が兄弟じゃった、と言うことじゃのう。
ちなみに曹鼎の孫に曹休がおり、曹洪と曹休は曹洪の祖父が同一の家系と言うことになるんじゃな。
若き頃の曹洪
徐栄との戦いで敗れた時、曹操は自分の乗っている馬が傷を受けていたので、曹洪は自分の馬を曹操に与えようとしたんじゃ。曹操はそれを辞退するんじゃが、曹洪は「天下に私がいなくとも差し支えありませんが、あなたがいないわけにはまいりません。」と言い、徒歩で曹操のお供をし、汴水のほとりまで来たんじゃが、汴水は水かさが深く、そのまま渡ることは不可能であったんじゃ。そこで曹洪は岸辺を巡り歩き船を入手して、曹操は何とか危地を脱出することができたんじゃよ。
曹操は兵が少なくなったので兵を集めようとするんじゃ。曹洪は当時の揚州刺史陳温と親しく、彼の下に赴き、盧江郡の精鋭武装兵二千人を手に入れ、当方の丹陽に向かい更に数千人の兵士を手に入れたんじゃよ。
呂布との戦いの時、曹洪は兵士を率いて本軍の前方を進み、先に東平・范を占拠し、食料を集めて本軍につないだんじゃよ。後、呂布が敗走すると曹洪は東阿を拠点として、10県以上を攻撃し、全て攻め落としたんじゃよ。そこで功績により、鷹揚校尉に、その後揚武中郎将に任じられるんじゃよ。
195年献帝が長安を脱出し、東に移動したんじゃ。そして196年に曹操は献帝を迎え入れようと曹洪を派遣するんじゃが、衛将軍の董承が袁術の将の萇奴と共に要害をたてに抵抗し、曹操は進むことができんかったんじゃよ。
ついに将軍職、そして鄴攻略へ
献帝が許に移ってくると曹洪は諫義大夫に任じられるんじゃ。これは帝の過失を諫めるための役職じゃな。じゃが実権をほぼ持っておらんかった献帝に対して、となるので名目だけの役職だったのかもしれんのう。
曹操が劉表を攻める時曹操とは別に進軍し、そこで活躍して劉表の別将を撃破し、それにより厲鋒将軍に任じられるんじゃよ。
そして197年、曹操が張繍征伐から帰ると、南陽等の諸県が曹操に背いて張繍に味方したんじゃ。曹操は曹洪を派遣したんじゃが勝てず、曹洪は引き返して葉に駐屯したんじゃよ。
烏巣への急襲の時、曹操は自ら攻撃豚の指揮を行い、守備は曹洪が任されたんじゃよ。曹洪は張郃らが攻め寄せてくるがこれを守り、烏巣が落ちたことを知った張郃は降伏してくるんじゃ。曹洪は当初この降伏をいぶかしんだんじゃが、荀攸が問題ないと助言したので、受け入れたんじゃよ。
204年、鄴を攻撃するんじゃが、曹洪を鄴攻撃に残し、曹操は周辺に駐屯している武将を攻撃していったんじゃ。さすがに曹洪一人で鄴を攻め落とすことはできんのじゃが、じっくり包囲し締めあげるんじゃ。
晩年の曹洪
217年、劉備が張飛、馬超、呉蘭等を下弁に駐屯させたんじゃ。曹操は曹洪を派遣し防御させたんじゃ。218年に曹洪は呉蘭を打ち破り、その将の任夔を斬ったんじゃ。これにより張飛と馬超は漢中に逃亡したんじゃ。ちなみに呉蘭は陰平の氐族の強端に斬られておるんじゃな。
曹丕が皇帝に即位すると、衛将軍となりやがて驃騎将軍となり、野王侯に位が進み、領邑は2100戸となるんじゃよ。ちなみに上尊号碑によると、この時点で既に衛将軍になっておるので、曹丕が皇帝即位後、と言うのは間違いじゃな。後年都陽侯に国替えされるんじゃが、理由までは分らんのう。
さて、栄達した曹洪じゃが、彼はケチな性格だったらしく、曹丕が若い頃借財を申し込んだがそれを断った、と言うことがあったらしいんじゃ。そこで曹丕は曹洪の食客が法を犯したことを口実に彼を死罪にしようとしたんじゃが、曹操の正妻卞太后がとりなしてようやっと死罪を免れることができたんじゃ。
徐栄との戦いで曹操の命を救ったことの恩義を卞太后は覚えて、感謝しておったんじゃろうな。
一度官位ははく奪され、領地も削られるが、曹叡の時代に再び驃騎将軍に返り咲き、232年に亡くなるんじゃよ。
さて、そんなところで能力評価と行こうかのう、今回は他も全作品に参加しておるぞい。
能力評価
曹洪は主に袁一族との戦い辺りぐらいまで、戦績が目立っておるんじゃ。特に目立つのは官渡で曹操の留守を預かり、見事敵の攻撃を防いでおる点じゃろうな。そのため統率を高くしておるんじゃ。また馬超達を撃退しておるのも光っておる。
その一方、攻撃面では何度か敵の陣を攻略できていないことがあり、統率よりはやや抑えめじゃな。また食客が結構法を犯す行為が多かったこともあり、知略と政治は少し抑え目じゃな。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
雑談ぢゃ
さて、曹洪の能力評価じゃ。
基本的には軍事面が高いですが、師匠と鄭問之三國志は統率が高めで、三国志14と天舞三国志は武力、武勇面が高めですね。
そうじゃな、ワシは官渡での防衛任務、それと漢中攻防戦で馬超、張飛を撃退した面を評価しておるんじゃ。
軍事面も普通に師匠は評価してるから、逆に他が統率が少し低め、と言うことになるんですかね。
そうかもしれんのう。それぐらいの才覚がないと馬超や張飛を相手にはできんと思うからのう。
そう言えば抑え目とは言え、師匠は政治が高いんですね。
うむ、まあ金儲けが優れているのと、揚州での兵士集めで実績があることから、多少知略よりは高くしておるぞい。知略は張郃投降を疑ったり、馬超らとの戦い時に、彼等の戦術を見破っていたのは曹休が行っておった、と言う 点からじゃな。
それにしても袁一族との戦いから、漢中での劉備との戦いまで随分間が空くんですね。
うむ、こういうのはちょくちょくあるからのう。情報があると一番良いんじゃが、こればかりはしょうがないのう。さて、今日はここまでじゃな、次もよろしく頼むぞい。
次も見てくださいね、それではまたです。