さて、今回紹介するのは夏侯惇じゃな。字は元譲と言うんじゃ。
こちらも曹操陣営を代表する猛将、と言うイメージが強い。じゃが史書の彼を見てくとそう呼ばれることに対する違和感の方が強いんじゃ。
さて、それでは彼に関して紹介していこうとするかのう。
人物紹介
さて、今回は夏侯惇じゃな。そう言えば弟子よ、今日は重要な日じゃぞ。
んん、何かありましたか?
曹操の紹介を見ればわかるが、1月23日は曹操の命日じゃな。まあ当時は旧暦じゃから、実際の命日はもっと後じゃがな。
そう言えば曹操の紹介、最後の所に書いていましたね。
うむ、そう言うことで、ワシなんも関係もないが、日本酒の祖でもある(かもしれない)曹操に献杯といこうかの。それにしてもこんな日に紹介するのが夏侯惇と言うのも感慨深いもんじゃな。来年の1月23日には誰の紹介をしておるのかのう。
いきなり1年後の話は気が早すぎですねw夏侯惇は演義でも関羽と五分に撃ち合ったり、結構良いポジションですよね。そのためか曹操配下の武将としても張遼と並んで少し抜けた評価になっていませんでしたか?
まあ、関羽との撃ち合いはそこまで関羽が本気ではなかった、と言うのはあったかもしれんが、演義で比較的優遇されておるのは確かじゃな。
ですが師匠は少し違った評価をしている、と言うことですか。
そうじゃな、それでは早速紹介するとしようかのう。
若き日の夏侯惇
夏侯惇、字は元譲と言い、沛国譙県の出身じゃ。前漢の高祖(劉邦)の将軍であった、夏侯嬰の末裔と言うことじゃな。しかし後漢末の頃はかなり力を落としており、没落気味の豪族だったようじゃな。
さて、そんな彼の若き日のエピソートじゃ。彼は14歳の時に先生について学問をしていたんじゃが、その先生を侮辱した男がいたんじゃな。その男を夏侯惇は殺害し、激しい気性の持ち主として知られるようになったんじゃ。
こうして見るとなかなか過激な奴じゃのう。この辺りが後々演義での猛将としてのイメージに繋がっていくんじゃろうかのう。
曹操と共に挙兵
曹操が挙兵した当初から、夏侯惇はいつも裨将として付き従ったとある。裨将軍は副将軍の意味があるので、曹操の副官として従った、と言うことかのう。
徐栄との戦に敗れた後、曹操と夏侯惇は揚州に赴き、兵を募集したんじゃ。
当時揚州刺史じゃった陳温と丹陽の太守周昕は四千余名の兵を与えてくれたんじゃ。
丹陽太守の周昕は、袁紹陣営にて孫堅等と争って公孫越を殺害し、公孫瓚との間に深い遺恨を残した周昂の兄に当たる人物じゃ。 kumajisan.hatenablog.com
意外なところで意外な繋がりがあるもんじゃな。
さて、せっかく彼らの協力により得た兵士達じゃが、龍亢まで引き返したところで兵の大半が反乱を起こすんじゃ。
『魏書』によると、この時曹操は自ら剣を手に数十人を殺害すると言う武勇を見せるんじゃよ。司令官級の人物にしては珍しい武勇伝じゃな。本当に曹操は何でもござれ、な人物じゃのう。
呂布と張邈の謀反
曹操が行奮武将軍になった時、(190年正月)に夏侯惇を司馬に任じ、白馬に駐屯させ、折衝校尉に昇進させ、東郡太守の役を受け持たせたんじゃ。
曹操が陶謙を討伐に赴いた時は夏侯惇が残り、濮陽の守備に当たったんじゃ。しかしこのタイミングで張邈は呂布を迎え入れ、謀反を起こすんじゃ。
夏侯惇と共に留守を任されていた荀彧はこの時鄄城におり、急ぎ夏侯惇を呼び寄せるんじゃ。この時は呂布たちに呼応しようとする人物が、高級将校とかの中にもあちこちにいた状態じゃった。夏侯惇は鄄城に到着すると反乱を計画したもの数十人を処刑したので、ようやっと城内は落ち着いたんじゃ。
韓浩の見事な対処
実はこの時ちょっと面白いエピソードがあるんじゃよ。夏侯惇は軽装の兵を率いて鄄城へ赴く途中、呂布にばったりでくわし、交戦する羽目になったんじゃよ。
呂布は一旦撤退して濮陽に入城し、夏侯惇の輜重を襲撃した後、将を派遣して降伏すると見せかけ、夏侯惇を人質に取ってしまう、絶体絶命のピンチじゃ。
じゃがこの時夏侯惇配下の韓浩が指揮し、諸将を落ち着かせるんじゃ。そして夏侯惇のいる場所に赴き、夏侯惇を捕らえている人物に向けて怒鳴りつけるんじゃよ
「お前たち極悪人めが、大胆にも将軍を捕らえ脅迫しておきながら、生き延びられるつもりなのか。だいいちわしはご命令を受けて賊を討伐しているのだ。どうして一将軍のためにお前たちを大目に見ようぞ。」
その後涙ながらに夏侯惇に対し、「国法ですからどうしようもありません。」と告げるとすぐさま兵士を呼び寄せ、夏侯惇を人質にしていた者に打ち掛からせたんじゃ。夏侯惇を人質にしていた者たちは恐れ慌てて頭を地面に叩きつけて「私どもはただ必要な品を頂戴していこうとしただけです。」と言った。韓浩はこの者たちを叱責した上、ことごとく切り捨てたんじゃよ。
夏侯惇が助かった後で、曹操は韓浩の措置を誉め、万事の法律として、今後法令に記そう、と言っておるんじゃよ。実はこれには前例があったんじゃ。
ちなみに橋玄は人物鑑定にも定評があり、曹操に会った際、「天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは君であろうか。」と非常に高く評価したんじゃ。
他にも『魏書』によれば「わしはずいぶん天下の名士に会ったが、君のような人物は初めてだ。君は自分を大切にしなさい。わしは年を取ってしまった。妻子をよろしく頼みたいものだ。」とも言ったそうじゃな。
曹操も彼を慕っており、後に彼の陵墓を祭ったりもしておるんじゃよ。曹操も韓浩も、恐らく間違いなく上記の橋玄のエピソードは知っておったと思われ、この橋玄の政治思想を受け継いでおった、と言うことなんじゃろうな。
韓浩は後に屯田の施策も提言する、非常に優秀な人物なんじゃが、演義ではただのやられ役として配されておる。
残念な話じゃ。
曹操が徐州から戻ってくると、夏侯惇は呂布討伐のお供をするんじゃが。この時に流れ矢に当たり、左目を負傷するんじゃよ。
さて、思った以上に長い話になったのう。一旦ここで切って、呂布との戦い以降は次の紹介とするかのう。
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雑談ぢゃ
さて、夏侯惇の紹介一回目じゃな。
あれ、夏侯惇に関して、戦績は書かないのですか?
うむ、夏侯惇の場合、目につく戦績って実はほとんどないんじゃ。曹操が遠征に行く、夏侯惇は後背を守る、と言う図式が多いんじゃ。たまに戦うとなると上記の様に人質になったり、次に書くが劉備に負けそうになったりするんじゃよ。
あまり軍人としては優秀ではないんでしょうか?
何度も戦闘しておるし、優秀でないということはないと思うが、思ったほどではない、と言うのはあるかもしれんのう。じゃが彼の本質は別の所にあると思うんじゃ。
その辺りは次に紹介、と言うことですね?
そうじゃな。能力評価も含めると、ちょっと意外な夏侯惇像が見えてくるかもしれんぞい。
「マテ、次回!w」と言う感じですね。
いや、そんなたいそうな話じゃないんじゃがなwまあ、良ければ次回もまた見てくだされ。
良ければ次も見てくださいね、それではまたです。