さて、今回は夏侯惇の二回目じゃな。
今回、彼の後半生、そして能力評価まで行きたいのう。
人物紹介
さて、今回は夏侯惇の後半生じゃのう。
どちらかと言えば、夏侯惇よりも韓浩が目立つ話でしたね。
そうじゃな、今回も軍事面に関して夏侯惇にはあまり目立つ話はないんじゃよ。それでは早速紹介していこうかのう。
統治者としての側面
この後、陳留・済陰の太守を受け持っていたんじゃ。当時大干ばつと蝗の被害が大きかったため、夏侯惇は太寿の河をせき止める為の堤を築いたんじゃよ。自ら土を担いで働き、将校士卒を率いて稲を植えるよう指導し、民衆に浸透させたんじゃ。
その後河南尹になるんじゃが、曹操が鄴を攻め滅ぼした頃に伏波将軍に昇進し、河南尹を領することはそのままとされ、しかも法令に拘束されず、自己の判断で適宜な処置をとることを許されたんじゃ。
これまでの記述を見ると、軍人と言うよりも政治家に近い印象が強いのう。
207年には夏侯惇の前後にわたる功績により、1800戸を加増して2500戸になるんじゃ。
田疇との関係
曹操はこの頃田疇の功績を嘉し、封土を与えようとするんじゃが、田疇は固辞するんじゃ。夏侯惇は田疇と仲が良かったので、田疇と話をしようとするんじゃよ。事の顛末は田疇のところに載っておるぞい。
軍人としての夏侯惇
さて、徐州で呂布が高順に命じて劉備を攻撃した時、曹操は夏侯惇を派遣して、劉備を救援させるが夏侯惇は高順に敗れるんじゃよ。
また、白望坡の戦いでは夏侯惇は于禁、李典と共に劉備と戦い、危ういところを李典に救われたと思われるんじゃ。詳細は劉備の所に載っておるぞい。
ここまでの夏侯惇は軍人としてはあまり目立った実績がないんじゃが、次は少し違うぞい。
215年、曹操が漢中の張魯討伐に向かった時のことじゃ。曹操は涼州の従事と武都の降伏者から陽平は南北共に山から遠く隔たっており、守り切ることはできないと聞いておったんじゃが、実際に現地を見ると「聞くとみるとでは大違いだ、と慨嘆するんじゃよ。」
実際陽平山(どうやら山の上に関がある、日本で言うなら山城のような感じかな?)の山上にある張魯側の諸陣営を攻撃するが、なかなか攻め落とせず、負傷兵もたくさん出てくるありさまだったんじゃ。一旦帰還しようと考え、夏侯惇、許褚を派遣し、山上にいる自軍を呼び戻すよう命じたんじゃ。じゃが前衛部隊が陣営にたどり着く前に、夜中になって道に迷い、誤って敵の陣営の中にとびこんでしまったんじゃ。
これにびっくりした敵はちりぢりに退去したんじゃよ。
嘘みたいな話じゃが、これにより曹操は陽平関を落とすことに成功するんじゃ。
曹操陣営の筆頭として
216年、曹操は孫権征伐に曹操は向かうが年明けて孫権が退却するとともに曹操も退却するんじゃが、夏侯惇、曹仁、張遼等を居巣に駐屯させるんじゃ。
この時に夏侯惇は二十六軍の総司令官となっておるんじゃよ。一軍が三千二百人とすると、8万以上の兵を指揮する権限を与えられておった、と言うことじゃな。この時期曹操以外でこれだけの軍を率いる人物は他にいなかったと思うぞい。
それまでの軍歴を見ても目立つ軍功はないが、これだけの軍統率を任せられ、それをこなしておる、と言うことは夏侯惇もどちらかと言えば軍人としてよりは政治家的な形で軍をまとめておったような印象が強いのう。
例えば今の日本で言うなら防衛大臣のような立場じゃろうか。純粋な軍人と言うよりは軍政家と言う感じじゃな。
曹操と帝位について
夏侯惇との問答
『魏氏春秋』によると、219年夏侯惇は曹操に向かって言ったんじゃ。
「天下の人はことごとく漢の帝位がすでに終わりをつげ、別の時代が今始まろうとしていることを存じております。古代以来、民の災害を除き人民の帰服を受ける人物こそが、人民の主人なのです。
今、殿下には三十余年の間、戦いの内に過ごされ功業恩徳は庶民にも明らかで、天下の人の帰服するところです。天意にこたえ民心に従うのに、いったいどうしてためらわれるのですか。」
じゃが曹操はこう言うんじゃ。
「(直接政務に携わらなくても)自分の生き方を示すこと、それも政治なのだ。もし天命がわしにあるとしても、わしは周の文王となろう。」
()の中の政務とは、社稷を祀ることを言うんかのう。周の文王になろう、と言うことから天下簒奪の意思はあっただろう(文王の息子の武王が殷を滅ぼす)と言う向きもあるが、わしはちと違う意見じゃな。
曹操と曹丕、曹節
確かに曹操は魏の体制を作り、曹丕に権力を移譲させることができるようにしておったが、その一方で娘達三人は献帝の貴人(妃)としておるんじゃよ。
曹操自身は自分が死んだ後の皇帝権力に何の魅力があろうか、ぐらいに思っても不思議ではない。それが曹操と言う人物なのではなかろうか。
ちなみに曹丕が禅定を受けた時、玉璽の受け渡しに最後まで抵抗しておったのが、曹操の三人の娘の一人で当時皇后になっておった曹節なんじゃな。
そう考えると、曹操も献帝自身に対しては、一定以上の敬意を表しておったように思うんじゃが如何じゃろうか。だからこそ、曹節のように献帝を敬愛する娘も育ったと思うんじゃよ。
夏侯惇の死
曹丕が曹操の後を継ぐと、220年3月3日夏侯惇は大将軍に任じられるんじゃ。そして4月25日、夏侯惇は逝去するんじゃよ。曹操の死から僅か三ヶ月後の話じゃな。
さて、これで人物紹介は終わりじゃな、続けて能力評価と行こうかの。もちろん彼は全作品に出演しておるぞい。
能力評価
夏侯惇も夏侯淵同様相当迷ったんじゃが、彼は二十六軍の統率者として、そして曹操の後方を支える統治者としての側面から、統率を高めとしたんじゃよ。ワシの中ではもし劉備が曹操の下にいたらどうなっておったか。それに近いイメージなのが夏侯惇じゃな。士卒に人気あり、大軍を任せるに足る総司令官として、皆が認めるようなカリスマ性がある人物、と言う感じじゃな。
戦争自体は負けが多く、劉備の釣り野伏にやられたりしておるので、軍事と知謀はやや控えめにしておるが、逆に統治者として、堤を築くなどの実績があり、河南尹としても大きな権限を与えられる等政治面の評価は非常に高いんじゃ。多分従来の夏侯惇とはだいぶイメージが違うんではなかろうか。
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雑談ぢゃ
さて、夏侯惇の能力評価じゃな。この人物の能力もかなり悩んだぞい。
演義とかのイメージを引きずってしまうと、師匠の場合でも軍事と政治を入れ替えちゃいそうですよね。
そうじゃなあ。じゃが実績を追っていくと政治家としての側面が結構強かったからのう。それも堤を築いたり、河南尹としての大きな権限を与えられるなど、太守としてそこそこ、と言う程度をだいぶ超えておるからのう。
他の作品も、武力が高いのを除けば比較的政治が高くて、師匠のイメージにも近くなりますかね。
演義に多少引きずられるのは仕方ないじゃろうが、コーエーで能力設定しておる方も、良く正史とかの実績を読み込んでいると思うぞい。逆に天舞さんが少し意外だったのう、もう少し政治が高いと思っておったからのう。
他の作品や師匠の評価を見ると、天舞さんの場合は策謀と政治が逆で丁度良いのかもしれないですね。
そうじゃな、さて、今回はここまでじゃな。皆さんの中では少しイメージが変わったかのう。案外こんなものと思っていた方もいたかもしれんが、夏侯惇の評価は自分の中で、演義時代からは大きく変わった人物じゃな。それでは次もまた見てくだされい。
次もお願いしますね、それではそれではまたです。