三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

荀彧(じゅんいく) 字:文若(163~212)その1

さて、今回紹介するのは荀彧じゃな。字は文若と言うんじゃ。

曹操一番の補佐役じゃな。その貢献度は同時代に比肩する者がいないのでは、と言うほどの人物じゃ。

ちとテキスト量が多いので時間がかかりそうじゃが、順々に彼の紹介を行っていくとするかのう。

 

さて、今回は荀彧じゃな。テキスト書きだすのに思ったよりも時間がかかったのう。

そう言いながら師匠、劇場版マクロスΔのDVDとか見てたじゃないですか。

ほっほっほ、まあ休みの日の息抜きは必要じゃからのう。

はあ、まったく、それでお話はどうだったんです、面白かったですか?

うむ、主人公より腕の立つ敵味方のエース達がめっちゃ目立っておったが、話はなかなか良かったぞい。まあ主人公以上のエースが目立つのは、マクロスの伝統みたいなもんじゃからな。

マクロスと言えばやはり戦闘シーンですからねえ。

そうじゃな、今回は戦闘シーン自体は多くなかったが、その分濃密じゃったな。さて雑談もほどほどに荀彧の紹介と行こうかの。

演義だと数いる参謀の一人ぐらいのイメージしかありませんが、そんなに優秀なんでしょうか。

そうなるかのう、まずは正史での彼の事績を順々に見ていくとしようかの。

人物紹介

荀彧の評判

荀彧は字を文若と言うんじゃ。潁川郡潁陰県の人じゃ。彼の父は8人兄弟で、彼等8人は八龍と呼ばれておるんじゃ。祖父も非常に名声があったようじゃし、父祖の代から優秀だったようじゃな。

荀彧の評判としては以下のようなものがあるんじゃ。何顒と言う名士がおり、彼は曹操のことも非常に高く評価しておったんじゃが、荀彧のことを「王者補佐の才能を持っている。」と評価したんじゃ。この何顒を通して曹操と荀彧は繋がりを持つようになったんじゃな。

曹操自身は荀彧を「わしの子房である。」と評したんじゃよ。子房とは前漢劉邦三傑の一人張良のことじゃな。的確な進言で劉邦を天下人に押し上げた人で、曹操は荀彧はそれに匹敵する人物と考えておった訳じゃな。曹操の評価が如何に高かったか窺い知れると言うもんじゃ。

若き日の荀彧

さて189年に荀彧は孝廉に推挙され、守宮令に任ぜられるんじゃ。しかし董卓の乱が起こると官職を捨てて帰郷し、村の主だった年寄りに忠言するんじゃ。「潁川は四方から攻撃を受ける地域で、天下に変事が起れば、戦いの巷と化すのが常だ。速やかに退去した方がよろしい。いつまでも留まっていてはいけない。」

じゃがやはりそうは言っても郷土愛と言うか土地に愛着があるためか、退去に決断がつかない人が多かったんじゃよ。丁度冀州牧の韓馥が騎兵隊を差し向けて彼らを迎えにやってきたんじゃが、付いていく者は一人もおらず、荀彧がだけが一族を引き連れて冀州へ向かったんじゃ。

丁度この時期袁紹が韓馥から冀州牧の官位を奪っており、袁紹が荀彧を迎えたんじゃよ。袁紹の下には既に弟の荀諶や辛評・郭図等同郡の人達が既に袁紹の任用を受けたが、荀彧は袁紹が結局大事業を成し遂げることができない人物だと判断し、袁紹の下を去るんじゃよ。

曹操との邂逅

当時曹操は奮武将軍として東郡にいたんじゃが、191年頃、荀彧はそちらに身を寄せることとしたんじゃよ。この時荀彧は29歳だったそうじゃ。曹操が喜んで彼を迎え入れたのは上にも書いてある通りじゃな。

さて、当時は董卓の威光は天下を圧していたんじゃ曹操が荀彧に彼のことを聞くと荀彧は言ったんじゃ。「董卓の暴虐はあまりにひどすぎます。必ず禍乱の内に命を落とすでしょう。何もできはしません。」これは荀彧の言ったとおりになるのう。さすがの慧眼じゃな。

曹操は黄巾討伐等兗州内で忙しく軍事行動を行っておったが、この頃荀彧は常に司馬として従軍しておったそうじゃ。そんな荀彧が曹操の後方を守るようになったのは陶謙討伐の辺りからじゃな。

張邈の反乱、荀彧の慧眼

この時張邈と陳宮呂布を迎え入れ謀反を起こすんじゃが、ここで張邈は荀彧に使者を送るんじゃ。

「呂将軍が曹使君の陶謙征伐の加勢に来られました。すみやかに兵糧を供給してください。」

人々はこの意図が読み取れずに迷うんじゃが、荀彧は瞬時に張邈が謀反した、と悟り、速やかに夏侯惇を召し寄せたんじゃ。

この時、豫洲刺史の郭貢が数万の兵を率いて鄄城に到達するんじゃ。中には呂布と共謀していると言うものがあり、人々はおおいに恐れおののいたんじゃ。郭貢は荀彧に会見を申し込むんじゃが、荀彧はこれを受けて会いに行こうとするんじゃ。豪胆じゃのう。

夏侯惇らは

「君は兗州全体の抑え、要ですぞ。行けば危ういに決まっている、いけません。」

と荀彧を止めるんじゃが、荀彧は以下のように答えるんじゃ。

「郭貢と張邈は立場上平素から結託していたはずがない。今、いち早くやってきたのは謀がまだ決まっていないからに違いない。まだ決心しない内に彼を説得すれば、たとえ味方とすることはできなくとも中立の立場を取らせることはできる。

もし彼のことを最初から疑ってかかったなら、彼は腹を立てて心を決めてしまうだろう。」

郭貢は荀彧がまるで恐れる様子がないことから、鄄城は容易には攻めきれないと判断し、軍を引き上げて立ち去ったんじゃ。

正直この時は相当危険な状態じゃったと思うが、曹操とはまた違うタイプの天才が兗州に残って情勢を的確に判断して処理をしたことで、曹操兗州内にかろうじて拠点をいくつか維持することができたんじゃ。この荀彧の活躍がなければ、曹操兗州奪還はもっと困難なものになっておったのは間違いないじゃろうな。

荀彧の厳正な態度

陶謙が亡くなった後、曹操は徐州を奪い取り呂布を平定する意図を持ったんじゃが、荀彧は劉邦の故事になぞらえ、足場を固めることの重要性を説くんじゃ。この辺り目先の利につい飛びつきたくなる曹操と、冷静に状況を判断する荀彧との違いが表れてて面白いのう。

こうして曹操呂布を破り、兗州を取り戻すことに成功するんじゃよ。

曹操献帝を迎え入れようかと考えた時に、諸将の内にはそれをすることに対して(そこまでメリットがあるのか?)と疑念を抱く者もあったんじゃ。じゃが荀彧と程昱が進めることに従い、曹操献帝を迎えに行くんじゃな。

この時、荀彧は漢の侍中・守尚書令昇進するんじゃよ。荀彧は常に中枢にいながら厳正な態度を保っていたんじゃ。

『典略』によると荀彧は身分上の定めを無視して士人にへりくだり、敷物を重ねて坐ることをしなかったんじゃよ。彼は政府の要職についても私欲のために心を動かすことをしなかったようなんじゃ。荀彧の甥の一人に才能品行ともに全く劣った者がいたんじゃ。ある人が荀彧に言ったんじゃよ。

「あなたが政務を担当しているのですから、〇〇を議郎にできないわけはないでしょう。」

荀彧は笑って言ったんじゃよ。

「官職と言うのは才能を発揮させるものです。もしおっしゃる通りにすれば、人々は私のことを何と言いますことか。」

荀彧の場合、官職が先にあり、そこで能力を発揮できる人物を推薦していってるだけ、と言うことなんじゃな。じゃから能力を発揮できない人物を推薦しておるようではイカン、と言うことじゃろうな。

さて、長くなりそうなので一度ここで切ることとしようかの。

 

↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい