三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

荀彧(じゅんいく) 字:文若(163~212)その2

さて、今回は荀彧の二回目じゃな。

荀彧の場合は見事な先見性からの発言が多く残っておる。

今回は官渡前後じゃな。

 

さて、今回は荀彧の二回目じゃな。

そう言えば許汜の時少し思いましたが、曹操を裏切った許汜、袁術に救援を求めた許汜、劉備達と話をした許汜、三つのエピソードが全て同一人物による話だったのは、師匠は理解してたんですか?

いや、それぞれの話は知っておったが、それが同一人物による話だったのは気が付かんかったのう。こう言う新しい発見があるから、まとめるのは面白いと言えるじゃろう。

なるほど、一人ずつまとめるのはそれはそれで、意味がやはりあるのですね。

うむ、それでは改めて荀彧の紹介と行こうかのう。

人物紹介

荀彧による人材推挙

さて、前回の続きじゃが、曹操は出征して都の外にいる時でも、軍事・国事に関するすべてのことを荀彧に相談していたんじゃ。曹操が荀彧に「君に代わってわしのために策謀を立てられる人物は誰だね。」と尋ねると荀彧は「荀攸鍾繇です。」と答えているんじゃ。

またこれより先に荀彧は策謀の士として魏志才を推薦しておったんじゃ。そして魏志才が死去すると今度は郭嘉を推薦したんじゃよ。

これらのことにより、曹操は荀彧には人を見る目があると考えたんじゃな。実際彼が推挙した人物は皆適任であったと言うんじゃ。

彼らの中では、厳象と韋康は後年敗死した、ということじゃな。韋康は夏侯淵のところで既に出ておったかのう。 

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厳象も別に何かの失態があった、悪政を行った、と言うようなものではないんじゃな。ただ孫策と境界を接しておったため、殺害されたと言うだけじゃな。

袁紹との戦いの前に

さて、袁紹が河北を制圧していくと、献帝擁する曹操を、元々配下筋だったこともあって軽んじるんじゃよ。当時袁紹曹操に手紙を送ってきたんじゃが、その文章は礼にもとって、人を馬鹿にしたものだったんじゃ。

曹操は激怒し、立居振舞が平常と異なっておったようなんじゃ。じゃが手紙のことを知らない配下の武将達は、丁度張繍にやられた後だったので、敗戦が原因で振る舞いがおかしくなっているのではないか、と皆思っておったんじゃ。

じゃが鍾繇が荀彧に訳を尋ねると、荀彧は以下のように言ったんじゃ。

「公(曹操)は聡明なお方で、決して済んだことを後からくよくよお考えにならない。多分他に何か気にかかることがおありなのだろう。」

実際に曹操に会って訳を尋ねると、曹操袁紹の手紙を荀彧に見せて言ったんじゃ。

「今、道義に反する者を征伐しようとしても、力ではとても敵わない。どうしたらよかろう。」

これに対して荀彧は曹操袁紹に勝っている点を四つ挙げ、更に天子を擁していることも言及して、だから袁紹が強大と言ってもそれが何の役に立つでしょうか、と曹操を励ますんじゃ。洞察力も優れているし、曹操の気持ちをうまく鼓舞させておる。

さらに荀彧は「まず呂布を攻め取らなければ河北に対しても簡単には手を下せませんぞ。」と順番に敵対勢力を潰していくことを進言するんじゃが、曹操は関中に袁紹があ侵入し、蜀漢等に誘いの手を伸ばすことを懸念しておったんじゃ。それに対し荀彧は以下のように言うんじゃ。

「関中の頭目は多く、一つにまとまることは不可能です。彼らは山東で戦争が始まれば各自軍勢を抱えたまま自分の勢力を保とうとするに違いありません。

今、恩徳によって彼らを慰撫し、使者を遣わして同盟を結んだならば、長期間に渡って安定した状態を保つことはできなくとも、公が山東を平定なさる期間ぐらいは、充分釘付けにしておけます。

鍾繇に西方のことをお任せになれば、公のご心配はなくなります。」

実際に鍾繇は、曹操が関中方面に派兵するまで10年以上、関中方面をうまく抑えることに成功するんじゃよ。

孔融との問答

その後呂布を征伐し、袁紹と対峙することになった時に孔融と荀彧が彼我の戦力差について話をするんじゃよ。孔融は以下のように言うんじゃ。

袁紹は広大な領土と強大な兵力を有している。

田豊と許攸は知謀の士であって、袁紹のために計策を立てている。

・審配と逢紀は忠義の士であって、政治を担っている。

顔良文醜は三軍をおおう勇士であって、軍兵を統率している。これではほとんど勝つことは難しい。

じゃが、荀彧はこれに反論するんじゃよ。

袁紹の兵は多いが、軍法が整っていない。

田豊は剛直で上に逆らい、許攸は貪欲で身持ちが治まらない。

・審配は独断的で計画性がなく、逢紀は向こう見ずで自分の判断だけで動く。

・この二人を留守として後を任せており、もし許攸の家族が法律を犯しても、大目に見ることができないに違いない。大目に見られないならば、許攸は必ず裏切るであろう。

顔良文醜は(大将としての器量はなく)男一匹の武勇を持つに過ぎない。一度の戦いで生け捕りにできよう。

この発言の真偽は不明じゃが、この荀彧の発言通りに事は進むんじゃよ。

官渡の戦い

官渡の戦いにおいて荀彧は許で後方支援をしておったんじゃが、曹操は糧食が少なくなってきたので、荀彧に手紙を送り許に帰還するべきかどうか相談するんじゃ。荀彧は以下のように返書するんじゃ。

袁紹は全軍を官渡に集結させ、公(曹操)と勝敗を決しようとしております。公は至弱をもって至強にぶつかっておられるのです。もし制圧することができないならば、必ずつけこまれることになります。

これこそ天下分け目の時です。それに袁紹は一平民の豪傑と言うだけでして、人を集めることはできても用いることはできません。そもそも公は神の如き勇武と素晴らしい英知がある上に、それを支えるものとして天子を奉戴していると言う大きな正義をお持ちです。どうして向かうこと成功しないことがありましょうか。」

更に以下のように励ますんじゃ。

「敵は喉元を締め付けていながら、前進することができないまま、もう半年になります。内情があらわになり、勢いが尽き果てれば必ず返事が起るでありましょう。その時こそ奇策を用いる時機であります。(その時期を)逃がしてはなりません。」

そのすぐ後に有名な烏巣の焼き討ちがあり、曹操袁紹を撃破するんじゃよ。

これにより曹操は最大の危機であった官渡の戦いを乗り切り、河北に覇権を握ることができるようになったんじゃよ。

さて、今回はここまでとしようかのう。政略的な観点、相手の情報をきちんと入手して的確な判断を下すなど、荀彧には欠点らしい欠点がほとんど見当たらんのう。

 

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