三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

荀彧(じゅんいく) 字:文若(163~212)その3

さて、今回は荀彧の三回目じゃな。

荀彧の場合は発言が非常に多い、気が付けば恐ろしいボリュームになっておるんじゃ。

今回は赤壁直前辺りまでじゃな。

 

さて、今回は荀彧の三回目じゃな。

荀彧の場合、手紙の内容が多いですよね。それだと通常のテキストと何か違うんでしょうか?

うーん、どうじゃろうなあ。基本的には変わらんと思うのじゃが、ただ手紙の場合、あまり極端に簡略化、と言うかまとめにくいと言うのはあるかもしれんのう。通常の記述は読みながら頭の中でざっくりと内容・状況を整理し、それをテキスト化しているんじゃが、手紙の内容とかは前後の文脈とかも考えて、まずは先にテキスト化して、そこから内容を精査していってるような気がするんじゃよ。

普通の文章と同じように、最初に頭の中で整理してテキスト化すればもっと早くできそうですが、それができないんですか。不思議ですね。

まあ通常の記述と言うのは手紙より元々簡潔に記述されておるからの。じゃからワシ程度でも、整理はそんなに苦労せんのじゃろうな。まあそうは言っても手紙・所管のテキスト化も面白いもんじゃよ。やっていけばいくほど、荀彧と言う人物の凄さが分ってくるからのう。

なるほど、それじゃさっそく続きをお願いします。

人物紹介

荀彧の進言

官渡の後の話じゃが、袁紹が大敗して才気に時間がかかりそうだと睨んだ曹操は、その隙に荊州劉表を征伐しようとするんじゃ。

じゃが荀彧はこれに反対するんじゃよ。

「ただいま、袁紹は敗北を喫し、兵士の心は彼から離れておりますゆえ、この困窮につけこんで平定に向かうべきです。

逆に彼に背を向け、長江・漢水まで遠征されるとなさると、もし袁紹が敗残の兵を集め、留守の間を狙って出撃してきたら、公(曹操)の成功の機会は失われるでしょう。」

そこで曹操もその進言に従い、袁紹と再度対峙しようと黄河を渡るんじゃな。袁紹の生存中に攻め滅ぼすことはできんかったが、袁紹死後も河北での戦いを優位に進めていくんじゃ。

鍾繇の活躍

じゃが、好事魔多し、この頃に袁紹の甥の高幹と郭援が黄河の東、并州の辺りを侵略するんじゃ。関中諸軍は動揺するし、曹操にしても冀州の西から、丁度横腹を狙われるところだったんじゃが、ここで荀彧が推薦した鍾繇が活躍するんじゃ。

鍾繇は動揺する関中諸軍にうまく働きかけ、彼らの軍勢を統率して高幹達を見事撃破するんじゃ。曹操にとって高幹たちの撃破だけでなく、関中諸軍の動揺もうまく抑えてくれた、非常に大きな出来事だったと言えるじゃろうな。

そして、まるでこのような事態が起こることを見透かしておったかのように、関中の抑えとして鍾繇を推薦した荀彧の才。この他人の才能を見抜き、的確な役職に配置させることができる能力は、桁違いと言えるじゃろうな。

曹操の上表・荀彧とのやり取り

上記の功績を曹操は取り上げ、上表して荀彧を万歳亭侯に封じたんじゃ。

これにはちょっとした逸話があり、『荀彧別伝』によると、曹操の上表文があり、以下のように書かれているんじゃ。

「私は次のように聞いております。計慮こそ功績の第一であり、策謀こそ恩賞の根本である。戦場での手柄も廟堂(政堂)における政策の勝利に優先されることなく、数多くの戦闘への参加も国政における勲功を凌駕することはない、と。

―中略―

天下が安定したのは、まさに荀彧の力によります。彼に高い爵位を授与して、その大きな功績を顕彰なさるべきだと存じます。」

要約すれば、どれだけ戦場で活躍しても国政・政略面の功績には及ばない、と言うことじゃな。そしてその功績の第一等は荀彧である、と。

じゃが荀彧自身は、自分は実戦の苦労を経験していないからと固辞し、曹操のこの上表文を献帝に差し出さなかったんじゃ。そこで曹操は荀彧に手紙を送るんじゃ。

「君と一緒に仕事をして以来、朝廷に立って、君が行ってくれた補佐、君がやってくれた人材推挙、君が立ててくれた計画、君が図ってくれた策謀はなんと多かったことだろう。そもそも功績と言うのは必ずしも実戦でのみ立てられるとは限らない。どうか辞退しないでくれ。」

こうして荀彧はやっと爵位を受けるんじゃよ。荀彧別伝の記述じゃから信ぴょう性が、と言う向きもあるかもしれんが、色々見ると荀彧の扱いは魏の中でも特別だったのは確かなんじゃ。それはまた後程記述するとしようかの。

九州の設置について

さて、204年に曹操が鄴を落とし、冀州牧に任じられた時のことじゃ。ある人が九州の設置を進言するんじゃ。

九州の設置とは、古代中国であった、中華全体を9つの州に分ける政策のことじゃな。史料によってその範囲は多少違うのじゃが、もしこれが実現すると、幽州、并州、それと司隷校尉と雍州の一部までが冀州の範囲に収まることになる。まさに強大な権威を持つことになり、他者に与える脅威が非常に大きくなる、と言うものじゃ。

曹操もいったん従おうかと考えるんじゃが、荀彧がこれに反対するんじゃな。

「もしそれをやると多くの地を奪い取ることになり、諸侯が領土を保持し、軍勢を保有できなくなるのでは、と恐れ動揺させるでしょう。

現在関西の諸将(馬超達)がそれを恐れ、一旦変事が起れば、善良な態度を保っている者があったとしても、一転して脅迫されて悪へ加担することになりましょう。

そうなれば袁尚は死を免れることができ、袁譚は二心を抱き、劉表はこのまま長江と漢水の流域地帯を保有し続けて、天下のことはまだ簡単いけりをつけられないでしょう。

どうか公におかれては、まずは河北を平定され、その後洛陽を修理復興され、そして南下して荊州にのぞまれ、劉表が(貢献を)怠っていることをお咎めになさりますよう。

さすれば天下はこぞって公の真意を悟り、人々は自然と落ち着くでありましょう。天下が大いに安定してから初めて、古の制度について議論すること、これこそ国家を永続させるに有利なやり方です。」

この辺りに荀彧の考え方の根底が見えてくるのう。

つまりいたずらに目先の利に飛びつくとそれ以上の反発を食らい、却って混乱をきたす。それを防ぐためにも順々に各地を制圧していき、天下を統一、世が安定してからその後の制度等を議論すべきである、と言うものじゃな。

曹操はせっかちな面があったのは確かで、たまに近視眼的な判断に陥りそうになる時がある。

そこでうまくブレーキをかけ、広い視野、長期的展望からの意見を述べておるのが荀彧なんじゃな。曹操も頭の良い人物じゃからすぐに荀彧の意図は理解できる。この二人の関係は以上のように非常にうまく回っておったんじゃ。

荀彧への信頼度合

曹操がどれだけ荀彧を信頼し、重用しておったかと言うのは例によって領邑からも見て取れるんじゃ。207年に諸将の前後に渡る功績を取り上げ、加増をしておるんじゃが、これがどれだけ荀彧が重要じゃったかをよく示しておるんじゃ。ざっと記憶にある範囲で見ていくと

夏侯惇 二千五百戸 ←武官トップ

荀彧  二千戸   ←文官トップ

曹仁  千五百戸  ←武官二番手(220年当時)

楽進  七百戸   ←張遼等も同じぐらいと思われる

荀攸  七百戸   ←文官二番手

郭嘉  二百戸   ←荀攸の配下、董昭も同じぐらい

ちなみにこの時夏侯惇は千八百戸加増で二千五百戸、荀彧は千戸加増で二千戸なんじゃよ。つまり加増前は荀彧が一番の領邑だった訳であり、加増後でも夏侯惇に次いで二番目、しかも文官No.2と目されておる荀攸は遥かに下なんじゃよ。

この時の上表を見ると以下のようになっておるんじゃ。

「忠義公正、よく緻密な策略をたて、国の内外を鎮撫した者としては文若(荀彧)がこれに該当し、公達(荀攸)がその次に位置します。」

つまり政略・戦略面において、間違いなく荀彧と荀攸がワン・ツーだと言っておるんじゃな。そのNo.2の荀攸でも荀彧とはこれだけの差が付けられておる。いわんや郭嘉をや、と言う感じじゃな。おそらく同職だった董昭も郭嘉と同じぐらいだと考えられるんじゃ。

文官として見た時に、どれだけ荀彧の貢献度が傑出していた(と曹操が見ていた)か、これで分かるじゃろうか。

曹操にとっては文武の両輪が夏侯惇と荀彧の二人じゃった、と言うことじゃろうな。じゃがこのことがもしかしたら後々波紋を呼ぶことになったのかもしれんのう。

 

と言ったところで今回はここまでじゃな。次もまたよろしくお願いしますぞい。

 

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