三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

荀彧(じゅんいく) 字:文若(163~212)その4

さて、今回は荀彧の四回目じゃな。

今回は荀彧の最後までじゃな。じゃがもう一回だけ続きそうじゃな。

 

さて、今回は荀彧の四回目じゃな。

上で書いていますが、いよいよ荀彧の最後なんですね。でも今回では終わらないのですね?

そうじゃな。何と言っても、この最後の部分で語ることは多い。また荀彧にはまだ他にも語るべき要素が多数あるんじゃ。それ故今回含めて後二回やるぞい。

なんだかんだで、荀彧の分量が曹操に次ぐぐらいになっていますね。相変わらず曹操陣営好きですね。

それだけ語りたいことは多い、と言うことじゃな。多分曹操とまではいかずとも荀彧ぐらい語る人物は今後もぼつぼつ出てくると思うぞい。それでは早速紹介していこうかの。

人物紹介

荊州の仕置き

曹操劉表を討伐しようとして、どのような策をとれば良いか、荀彧に尋ねると、荀彧は以下のように答えるんじゃ。

「現在、中華の地が平定された以上、南方は追い詰められたことを自覚しておりましょう。公然と宛・葉に出兵する一方、間道づたいに軽装の兵を進め、敵の不意を突くのが良いでしょう。」

基本的に曹操は荀彧の進言にはほぼ無条件で従っておるんじゃな。この時もこの通りに動き、劉琮は曹操に降伏するんじゃよ。

じゃがこの時は結局赤壁の敗戦もあり、完全に制圧とはいかない感じで曹操荊州から戻ってくるんじゃ。そしてその後に少しずつズレが生じてくるんじゃな。

董昭の発議

仕掛け人は董昭じゃ。曹操爵位を進めて国公とし、九錫の礼物を備えて、その際立った勲功を顕彰すべきだと考え、ひそかに荀彧にこの旨を相談するんじゃ。

じゃが荀彧はこれに反対するんじゃな。

ここから先は自分の想像になるんじゃが、これまでの進言内容から、荀彧は基本的に名より実を重んじるタイプじゃ。実力をつけ、天下を統一してこそ皇帝への道が開かれる、と言う感じじゃな。

じゃが董昭は名も求める、そして他の臣下も当然そうじゃ。何より曹操爵位が上がらねば、その下にいる人物たちは褒賞も階級も上がらんからの。曹操のため、そして漢のために必死に戦っておる連中が、荊州や揚州で跋扈している劉備孫権よりも階級が低い、なんて歪な構造が当たり前のように起こってしまっておる。

皆が清廉潔白で見返りを求めない世の中ではない、当然と言えば当然のことじゃな。

前回領邑の話をしておるが、荀彧と比べて他の参謀達の領邑が圧倒的に少ないこととも無関係ではなかろう。

董昭にしてみれば、曹操お気に入りのあなたは良いかもしれない。だが他の人達はどうだ、と言う感じじゃな。

この辺り少し立場は違うが、銀河英雄伝説のラインハルト(曹操)、キルヒアイス(荀彧)、オーベルシュタイン(董昭)の関係に近いかもしれんのう。

君主の信任厚い特別扱いのNo.2はいらない。皆が等しく功績に合わせて褒賞を得るようにならないといけない、と言う感じじゃろうか。

曹操との軋轢?

そう考えると、軋轢がある相手は曹操なのだろうか?と言う話になってくるんじゃ。そもそも家臣で荀彧以外の多くは董昭の案に賛同しておる。

そうなった場合、曹操との軋轢と言うよりは、他の家臣との軋轢の方が大きくなったのだと思うんじゃ。しかも曹操が鄴に拠点を移してからは、配下も基本的に鄴で行動をしており、許におる荀彧とは物理的にも距離ができてしまっておる。

荀彧自身は曹操に対して漢の劉邦を引き合いに出したり、天下が安定して後のこと等、天下統一後の話はしょっちゅうしておる。そういう意味で荀彧は別に漢の忠臣ではないと思うんじゃ。じゃが荀彧の場合はそこに至る段階をきちんと踏まないといけない、と言う考え方じゃな。

そのプロセスのずれと言う部分に、曹操も随分悩んだのではないかと思われるんじゃ。最後に孫権征伐の折に曹操が荀彧を呼んだのは、今後のことについて、荀彧ともう一度話をしたかったのではないかと思われるんじゃ。

それにしてもなぜ曹操はそこまで許に寄り付かなくなったのか。別に荀彧が嫌いだからとかではないようじゃの。

董承の暗躍?

こちらは董承が仕掛け人と思われるんじゃ。董昭と言い、同じ読みのこの二人は腹が黒すぎるじゃろうw

『世語』によると、古いしきたりにより皇帝の前に参内して謁見しないといけない時、必ず近衛兵が左右から戟で首を挟んで進ませた、と言うのじゃ。それまでずっと廃れて使われておらんかったらしいこの制度が、許に都を移し、曹操が参内する時にいきなり復活させられたらしいんじゃよ。

いきなりこんなことをさせられたことで、曹操は許で二度と参内しなかったとある。そして恐らくこの制度を復活させた張本人は董承じゃろうな。

演義では漢の忠臣じゃが、史書を見るとかなり腹黒く、己の権力の邪魔となりそうな人物をあの手この手を使って蹴落としておる。

ともあれ、これらのことにより、曹操は朝廷と一定の距離を置くようになったんじゃ。その間を取り持っておったのが荀彧であり、曹操と荀彧の間も、書簡のやり取りが多くなってしまったんじゃろうな。

曹操の思い

曹操自身は荀彧と、多分仲違いしていないことを表す証左として、以下のような記述があるんじゃ。

「二人の荀尚書令(荀彧と荀攸)の人物鑑定は、時間がたてばたつほど、ますます信頼に価する。わしはこの世を去るまで忘れないぞ。」

荀攸は荀彧が亡くなった後に魏国の尚書令となっておるんじゃ。つまりこの曹操の発言は九錫問題で荀彧が憂悶死した後に発せられたものなのは間違いないんじゃ。

もし個人的な軋轢があったとしたら、その後にこんな台詞は吐けん、とワシは思うんじゃよ。互いのことを思うからこそ悩むような関係であった、と思うのう。

そしてもう一つ曹操は最後の最後まで皇帝になろうとしなかった。配下も皆皇帝になるのを薦め、孫権ですら「ユー皇帝になっちゃえよ!」と言っているのに、それもはねつけているんじゃ。

これは個人的には荀彧に義理立てしてのことではないか、とも思うんじゃ。多分荀彧と何度も話したであろう、天下を統一し安寧に導いた後に皇帝になる、と言う線を引いて、そこだけは死守しておったんじゃなかろうかのう。

まあこの辺りは大分妄想が入っておるが、どうじゃろうかのう。

荀彧の遺産

さてそんな荀彧が残した遺産じゃが、これは魏国にとって非常に大きなものじゃったと言えるじゃろう。

同郷人では荀攸鍾繇陳羣、他にも司馬懿、郗慮、華歆、王朗、荀悦、杜襲、辛毗、趙儼等、大臣級は10数人を数え、また魏志才や郭嘉等世俗に背を向けた、儒学的観点からは評価されないような人物なども積極的に登用しておるんじゃな。

諸葛亮が後年、友人の徐庶が魏であまり高位に登っていないことから、「魏は何と人材の厚いことか」と嘆息するんじゃが、これらの多くは荀彧の手によって成されたもの、と考えるとすごいことが分かるじゃろうか。

 

さて、と言ったところで、きりも良いので今回はここまでじゃな。次が荀彧編のラストじゃ。次回は荀彧に関する評価やエピソード、能力評価を載せていくぞい。

 

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