三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉繇(りゅうよう) 字:正礼(?~?)

さて、今回紹介するのは劉繇じゃな。字は正礼じゃな。

何、彼は揚州刺史ではなかったのかじゃと?確かに彼は揚州刺史になるんじゃが、この時期は任命される前なんじゃよ。

この時期の揚州刺史は陳温と言う人物じゃな。彼が亡くなった後に劉繇は揚州刺史になるんじゃな。それじゃ彼の紹介といこうかの。

 

さて、今回は劉繇じゃな。兄の劉岱同様、名声のあった人物なんじゃよ。

そう言えば師匠昨日の人物紹介、冒頭の書き方、意味不明でしたよ。

う、うむすまんかった。劉繇と劉岱の関係を書き忘れておったんじゃ。一応補足しておいたんで、勘弁してくだされ。

ちなみに劉繇はこの時期本当に劉岱のところにいたんでしょうか。

どうじゃろうか。宮城谷氏は『三国志外伝』で劉岱のところにいたと思いたい、とは書いておったが、自分が史書を見た中ではどこかで揚州に避難してニート生活を送っておった、と書いてあったようにも思うんじゃが・・・まあその辺りも紹介していくとしようかの。

人物紹介

劉繇の若い頃

さて、劉繇の出自はおよそ、劉岱のところで書いておるので、そちらを参考にしていただければよいと思うぞい。 

kumajisan.hatenablog.com

 

さて、劉繇が19歳の時じゃ、従父の劉韙が賊徒に捕らえられ人質になったことがあったんじゃが、劉繇は見事にこれを奪い返してきたんじゃ。このことから彼の名は人々に知られるようになったんじゃ。

済南国の行政監察として

やがて孝廉に推挙され、下邑県の県長に任じられるんじゃが、現地の権力者の横暴が酷く手が付けられんかったので、彼は一旦職を辞しているんじゃよ。

その後彼は州の役所に招かれて、済南国の行政監察に当たっておったんじゃ。

この時の済南国の相は中常侍(宦官)の息子であったが、賄賂をむさぼって法をないがしろにしていたので、劉繇は上奏してこれを罷免した、とあるんじゃ。

これにより劉繇の名声はさらに上がることとなる。

丁度陶丘洪が彼を茂才に推挙するように進言したのがこの頃じゃな。

揚州刺史として

さて、ここでは劉繇はこの時期劉岱の下におることにしておるが、史書によるとこの時期劉繇は戦乱を避けて淮水流域におった、とあるんじゃな。じゃから正確には劉岱の下にはおらんかった可能性が高い。じゃがまあせっかく優秀な兄弟なんじゃから、個人的には並べておきたかったんじゃよ。

そして劉岱が青州兵との戦いで命を落とした時期に詔書が下され、彼は揚州刺史に任じられるんじゃ。しかし、淮南には袁術の勢力があるので、本来の治所である寿春には行けんかったんじゃ。そこで呉景と孫賁が彼を迎え、曲阿に落ち着くこととしたんじゃ。

そして袁術の拡大政策に劉繇は対抗するんじゃな。彼は張英と樊能とを遣わして長江の岸辺に軍をおいて、袁術の進出を食い止めさせるんじゃ。

孫策との戦い

姓を見ると分かるかもしれんが孫賁は孫一族、呉景の姉は孫堅の夫人で二人とも孫一族の武将でもあるんじゃ。そして孫策袁術に仕えるようになったことで、当初は良好だった劉繇と呉景・孫賁との間にも緊張関係が走るんじゃな。

劉繇は彼らを袁術の手先とみなし、排除にかかるんじゃ。袁術も劉繇に好き勝手はさせない、と言うことで自分で別に揚州刺史を任命し、呉景・孫賁と共に張英等を攻めるんじゃ。しかし1年余り経っても彼らを下すことはできずに、劉繇は勢力を伸ばし、配下の兵は数万を数えるまでになったんじゃ。

じゃがここで麒麟孫策の登場じゃ。孫策は自ら軍勢を率いてくると張英等を破り、また劉繇も敗北し、予章の方へ脱出するんじゃ。ちなみに演義じゃと一方的に敗れておった劉繇じゃが、実際には樊能達が軍を率いて牛渚の砦を奪い取ったりするなど、局地的な勝利もあったり、そこまで一方的にはやられておらんようじゃな。

まあ最終的に敗北した劉繇はもう一度予章を根拠地として、態勢を立て直そうとするんじゃ。この時配下の笮融が劉繇の先駆けとなり、予章郡に入るんじゃが、ここで笮融は自立を図り、予章郡太守の朱皓を殺害するんじゃな。劉繇はこれに怒り笮融を攻めるんじゃが、一回撃退されるんじゃよ。しかしもう一度兵を集め今度は笮融を破るんじゃ。が、ここで彼の寿命が尽きてしまうんじゃよ。時に42歳とあるんじゃ。恐らく196~197年頃の話じゃと思うぞい。

孫策と劉繇

これは『江表伝』に書かれておることなんじゃが、孫策太史慈と語っている時に劉繇の話が出てくるんじゃ。そこで孫策は以下のように語っておるんじゃな。

「劉繇どのはかつて私が公路(袁術)どのの手先となって盧江を攻めたことをとがめだてしておられたが、そのお気持ちはいささか意固地で十分にこちらの気持ちを思いやっていただけなかった。私が公路どのの手下になったのは、亡き父上の兵士数千余人が皆公路どのの下にあったからなのだ。

-中略-

後になると公路どのは臣下としての節義を守らず、我が身を顧みず反逆僭上のさたをなし(皇帝になったことを指す)、それを諫めても聞き入れなくなった。男同士が義によって交わりを結んだ時、もし天下の正義にもとる行いがあったなら、その関係を解消せざるを得ない。私が公路どのを頼り、後にはまたその関係を断った顛末はこのようであったのだ。

今、劉繇どのは死去し、生きている内に彼に対して詳しく説明できなかったのが心残りだ。現在彼の子息は予章におるが、華歆どのは彼をどのように処遇され、また彼の部曲(子飼いの兵士)は今もその下にいるのであろうか。あなた(太史慈)は劉繇と同じ青州の出身であり、以前彼の下にもおられた。どうか予章まで行って、子息の様子を尋ね、また私の気持ちを部曲に伝えてもらえないだろうか。」

立場上孫策は劉繇の敵対者となっておったが、心情的にはずいぶん劉繇のことを気にかけておったらしきことが良く分かるエピソードじゃな。実際、後に劉繇の息子の劉基は、孫権の時代に寵遇されることとなるんじゃよ。まあそれはまた別の話じゃな。

諸葛亮との意外?な関係

献帝春秋』によると劉表諸葛亮の従父である諸葛玄を予章太守にしたらしいんじゃが、漢朝から別に朱皓を派遣して諸葛玄と代らせたんじゃ。この時朱皓は劉繇に兵を借りて諸葛玄を攻撃し、諸葛玄は西域に撤退したとあるんじゃ。

そして後に西域の住民が反乱して諸葛玄を殺害し、その首を劉繇に送った、とあるんじゃ。

ただこの記述は諸葛亮本伝の記述と食い違いがあり、また献帝春秋の記述の信憑性にも疑問があるので、話半分ぐらいに聞いておくと良いかもしれんのう。

さて、少し長くなってしまったが、劉繇の紹介は以上じゃな。演義の劉繇のイメージからは大分違った印象を受けなかったじゃろうか、続けて能力評価じゃな。今回は・・・おや、鄭問さんは出ておらんのか、てっきり全作品に出てると思ったが珍しいのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 劉繇(20歳)  90 80 65 95
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓ ↓↓
 劉繇(45歳)  123 112 95 128

f:id:kumajisan:20210213034012p:plain

 

劉繇は兄同様優秀で、実績を上げてみると兄よりももうワンランク上の印象を受けるんじゃな。勇猛さだけは兄が上じゃが、劉繇は袁術にも対抗し、孫賁らの攻撃を凌いで勢力を伸ばしたことから軍事と統率は高目の評価じゃな。またその状態で勢力を広げ、万を超える軍勢を揃えたことからも政治面もまた評価できるじゃろう。

じゃが唯一知略においては兄同様目立つものが見られんので、ここだけは少し抑えめじゃな。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 劉繇  65 66 47 72 64

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 劉繇  1 2 2 7 5 9

 

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

 

雑談ぢゃ

さて、劉繇の能力評価じゃな。少しイメージ代わったかのう?

そうですね。私も劉岱よりは劉繇の方が少し上のイメージを受けました。そして演義とはだいぶ違いますね。

そうじゃな、陶丘洪の評価と劉岱だけの紹介じゃとそうでもなかったが、劉繇の実績を見ると陶丘洪が評価した、と言うのも納得がいったんじゃ。それだけに兄の方は名を残す前に戦死してしまったのが惜しまれるのう。

確かに生きていれば、もう少し評価は上がったかもしれませんね。

うむ、兄の方が少し評価が落ちるのは、この実績部分の差じゃな。

でも天舞さんは兄の方が評価高いですね。むしろ三国志14の方が師匠の評価に近いですね。

そうじゃな、これに関してはコーエーテクモさんは演義よりも正史の評価で能力を出しておるように思えるのう。昔はもっと軍事能力が低かったと思うぞい。

少しずつその辺りは変わっていってるんですね 。

じゃが、正史バージョンでゲームができる日は・・・来ないじゃろうなあ。さて、少し長くなってしまったが、今回はここまでじゃ。劉繇に対する印象が少し改まってくれたらうれしいぞい。次もまたよろしく頼むぞい。

良ければ次も見てくださいね、それではまたです。