さて、今回紹介するのは王肱じゃな。
彼も多分過去に出ておると思うが、どこに出ておるか覚えておるかのう。
史書ではほとんど出番がない彼じゃが、どんな人物じゃったか紹介していくとしようかのう。
さて、今回は王肱じゃな。彼も過去出ておるんじゃが覚えておるかのう?
うーん、何となくおぼろげにしか覚えていませんね。
まあ、そんなもんじゃのう。ワシもかろうじて覚えておったぐらいじゃな。と言うことで早速紹介と行くぞい。
人物紹介
さて、王肱じゃが、彼は黒山賊絡みのところで名前が出ておるんじゃ。
以下の二人の人物紹介のところに名前が出ておるんで、興味ある方は見てもらうとええぞい。
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さて、この頃王肱は東郡太守だったんじゃが、彼が東郡太守になるのには少し経緯があるんじゃ。元々東郡の太守は橋瑁と言う人物で、彼は橋玄の一族で族子に当たるんじゃ。橋玄は人物鑑定に優れており、若き日の曹操を非常に高く評価した人物として名が残っておるぞい。
また厳正な法裁きで人質に厳しく当たり、その後の規範となった人物でもあるのう。この辺りは夏侯惇のところに少し書いているので見てみると良いかもしれんのう。
演義じゃとこの橋玄(橋公)の娘二人が、二喬として孫策と周瑜に嫁ぎ、曹操が二人を求めたことで赤壁の戦いに発展・・・となるんじゃが、橋玄と二喬は無関係じゃな。そもそも曹操の親世代であろう橋玄の娘が、曹操の子世代に当たる二橋とするには、ちと無理があろうて。そもそも橋と喬では字が違うでのう。
さて、横道にそれてしまったが、この橋瑁も橋玄の一族らしく、結構優秀で以前兗州刺史だった時代もあるそうなんじゃよ。当時の彼は非常に威厳と温情があったそうなんじゃ。
そして理由ははっきりせんが、劉岱と橋瑁は仲が悪かったんじゃ。推測じゃが、特に軍事権を巡って刺史とその下の郡太守、と言うのは色々と不都合が生じ、この両者もその辺りが理由で争ったのではなかろうか。
刺史には元々軍事権がなく、秩石も低い。太守の方が軍事権もあり、秩石も高いと言う、組織としてはやや歪な構造なんじゃな。これは以前にも少し書いた内容じゃな。
恐らくじゃが、劉岱は自身の兗州内における権限を拡大しようとした結果、政敵となりそうだった橋瑁を排除した、と言うことではなかろうか。
事実、この後恐らく劉岱の息のかかっておったであろう王肱が東郡太守に据えられておる。こうして劉岱は兗州内での地盤を固めようとしておったのかもしれんのう。
じゃが、ここで黄巾賊残党によって色々と計画が狂ってくるんじゃな。まず黒山賊が魏軍を攻めてきて、その際東郡も彼らの脅威にさらされるんじゃが、王肱はこれを守り切れなんだ。
そして曹操がやってきて黒山賊を排除することで、袁紹によって曹操が東郡太守に推挙されてしまうんじゃ。
劉岱が青州黄巾賊と無理に戦おうとしたのも、東郡が袁紹方の武将(この時期曹操はまだ袁紹派に属していた)によって治められる事態になったから、と言うのも少し関係あるかもしれんのう。
曹操が東郡太守となった後の王肱の動向は不明じゃが、戦死していなければ劉岱の下に戻っておったのではなかろうか。と言うことでここでは劉岱配下として載せているんじゃ。もしかしたら黒山賊との戦いで戦死したかもしれんがのう。
と言ったところで、人物紹介は終わりじゃな。王肱本人よりも前置きがちと長くなってしまったが、許してくだされよ。さて、それでは続けて能力評価と行こうかの。今回もワシの評価のみじゃな。
能力評価
王肱は東郡太守に任じられておるが、太守としてはやや器量が足りんかったのか、全体的に能力は抑え目じゃな。特に軍事面は黒山賊にやられっぱなしだったようじゃからのう。政治面も実績はないが、劉岱が太守としてのはそちら面を恐らくは評価してのことじゃと思うので、軍事面よりはやや高めじゃ。とは言え目立つ実績がないので、こちらもそこまで高い訳ではないがの。
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雑談ぢゃ
さて、王肱の能力評価じゃな。彼みたいな人物は難しいのう。
黒山賊にやられた、と言うぐらいの話しかありませんからね。
そうじゃな、軍事面はあまり評価はできんかったのう。
政治向きな能力が必要と言う判断で師匠は政治を少し高めにしているんですね。
そうじゃな。昨日の王彧のところで、文官としてある程度評価しても実績がなければ60前後、と言うのに王肱は該当するので、この辺りの数字になると言うことじゃな。
それにしても曹操陣営に慣れてしまっていましたが、これぐらいの能力の人が多いんですよね?
うーん、そうじゃなあ。乱世でなければもっと評価は高かったかもしれんが、そこは運がなかったと言うことじゃのう。さて、今日は王肱の紹介じゃったが、かなりマイナーなのは確かじゃが、如何でしたかな。
良ければ次も見てくださいね、それではまたです。