さて、今回は張邈の2回目じゃな。
今回は反乱起こした後の張邈の動きを追いかけて能力評価といこうかの。
さて、今回は張邈の二回目じゃな。今回は前回言ったように張邈が裏切った原因等についてちとまとめるとしようかの。
その辺り是非教えてください、よろしくお願いします。
うむ、それでは順番に見ていくとしようかの。
人物紹介
陳宮と呂布、張邈
さて、前回で呂布と張邈が手を取り合って誓いを交わした後じゃな。
194年に曹操が再度徐州征伐を行った時、陳宮らが張邈を説得するんじゃ。その内容は張邈自身が十分英雄として評価されるべき人物なのに、他人に制圧されている、何とも見下げたことではありませんか。あなたと呂布が手を組めば天下を望むチャンスがある、と言って焚きつけるんじゃよ。
こうして張邈は曹操に対して反乱の意思を示すんじゃが、曹操が袁紹に従い、と言うのとは少し違うと思うんじゃよ。
と言うのも193年頃いくつかのことが起っているんじゃよ。
張邈を取り巻く諸勢力
まず前後の状況を見ていくと、元々陶謙は袁術、公孫瓚らと手を組んで曹操や袁紹と敵対関係だったんじゃ。じゃがこの193年前後から状況が変わってくるんじゃ。
まず公孫瓚は192年の界橋の戦いで袁紹に敗れ、袁紹・曹操包囲網の一角が崩されておるんじゃよ。
そして同時期に陶謙は闕宣と言う人物が天子になると彼と手を結び、袁術主導の同盟体制から脱却しようとしてるように見えるんじゃ。そして張邈の弟の張超は、元々徐州の広陵太守だったんじゃが、この年に広陵太守が陶謙によって趙昱に取って代わられておるんじゃ。恐らくその後の動向を見るに、追い出された張超は張邈の統治する陳留郡におったようなんじゃな。
そして実は袁術がこの193年頃、陳留郡に進出して一時期駐屯しているんじゃよ。
元々張超は広陵太守だったことから、袁術・陶謙等の派閥だったのが、陶謙が独立していく過程で、袁術派だった張超が追い出された可能性もあるんじゃよ。
そうすると元々袁術派の張超が陳留で何をやるか・・・袁術自身も結構裏から手を回して調略するタイプじゃ(それが成功するかどうかはともかく)から、張超が袁術の意を受けて兗州内部を切り崩しておったんではなかろうか。
実際呂布配下の陳宮等は呂布を裏切って袁術と通じていたことが、後々明かされておるんじゃよ。それが呂布時代からではなく、曹操時代からだったかもしれんのじゃ。
つまり袁術が裏で手を引いておったかもしれない、と言うことじゃな。
兗州反乱の真相?
近年でよく見る兗州反乱は、曹操が徐州で虐殺したことが原因で、と言われることが多いんじゃが、既にワシが一回それに疑問を呈している。
また徐州征伐が正当性があったと思われるのが、張超配下だった臧洪が陳琳宛に送った書簡に「(張超配下として)任務をお受けした当初は、大事をやりぬき、ともに王室を尊崇するものと思っておりました。ところが思いもかけず、天子の不興を買って、故郷の州(徐州)が攻撃を受け云々」と書いてあるんじゃ。
これから言うと徐州征伐はそもそも徐州の陶謙や張超等が、臧洪の当初の目標とは違ってきて(恐らく王室を蔑ろにし)、天子の不興を買ったことが要因、と書いておるんじゃ。ちなみにこの臧洪の書簡にも、曹操の虐殺の話は一切出てこんのじゃよ。
つまり曹操が非道なことをやったから兗州名士が反乱したのではなく、王室(献帝)を否定しようとする勢力(袁術や陶謙等、それに従う諸氏)が、曹操を裏切った可能性が高そうなんじゃな。
袁紹陣営にも献帝なんかおっても面倒くさいだけ、と軽んじる勢力はおったし、同じことを考える人物たちが曹操陣営の中におっても不思議はない、とワシは思うんじゃ。
その後の張邈は基本的に呂布に従うんじゃな。
じゃがその後、張邈は袁術の下へ救援を依頼に行くんじゃが、その途中自軍の兵士の手にかかって殺害されるんじゃ。
優秀な才覚を持っていたであろう人物だけに、非常に残念な最後じゃ。さて、色々妄想も語ったが、張邈の人物紹介は以上じゃな。
続いて能力評価に行くぞい。今回は全作品に出演しておるのう。
能力評価
張邈は中央に召喚されて優秀だったことで騎都尉になっておる、と言うことで軍事面が比較的高めじゃな。特にいろんな英雄と交わり評価されておることから、統率は高めの評価としておるんじゃ。
知謀、政治面は特筆すべき事績はないが、色んな人材を受け入れておる点から、こちっらもそれなりに評価じゃな。曹操の盟友としての立場を維持しておれば、もう少し違った評価になったかもしれんのう。
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雑談ぢゃ
さて、張邈の能力評価じゃな。
見事なまでに評価がバラバラですね。評価が難しいと言うことでしょうか。
まあコーエーテクモさんの魅力を統率相当と考えれば、ワシの評価に少し近くなるかもしれんのう。
天舞さんは政治寄りですが、これはどういうことでしょうか。
うむ、名士と言う要素を評価した、と言うことじゃろうかのう。コーエーテクモさんも魅力を除けば似たような評価じゃからのう。
なるほど、鄭問さんはちょっと他とは違いますね。
そうじゃな。この評価はちと難しいのう。自分のように騎都尉となった部分のみを抽出したんじゃろうか。そして曹操に反乱したことを愚行と判断し、政治面は低くなったのかもしれんの。
うーん、評価するのはやはり難しいですね。
うむ、まあ演義等のイメージよりは評価は高い人物、と思ってもらったらよいと思うぞい。さて、張邈の紹介はここまでじゃな。だいぶ想像も多かったから、話半分程度で聞いてくだされ。
良ければ次も見てくださいね、それではまたです。