三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

孔融(こうゆう) 字:文挙(153~208)その4

さて、今回は孔融四回目じゃな。

今回こそ、孔融の最期を迎えるあたりまでやるとしようかのう。ただ能力評価まで行けるかは不明じゃな。早速見ていくとしようかのう。

  

さて、今回は孔融四回目じゃな、ここから曹操の下での話じゃな

だいぶ長くなってきたので、早速やっていきましょう。

そうじゃな、それでは見ていこうかのう。

人物紹介

楊彪孔融

さて、楊彪についてじゃ。以前孔融は楊賜に取り立てられたことから楊彪のことも高く評価しておったんじゃな。

ところが袁術が天子を名乗ってしまった。元々曹操楊彪としっくりいっておらず、袁術とは姻戚関係にあったことから楊彪を逮捕するんじゃ。

そして彼を処刑しようとすると、孔融が官服を着る余裕もなく、出かけて曹操に会って言ったんじゃ。

「楊公は代々清潔な徳を持ち、四代に渡って光輝を放った家柄です。『周書』に、刑罰はその身にとどまるだけで、親兄弟に波及しない、とあります。まして袁氏の罪ではありませんか。」

これに対して曹操は「国家(天子)の意思である。」と答えるんじゃ。

じゃが孔融は引き下がらない「今、冠のひもを結び、笏を大帯にはさんだ天下の高官達が明公を仰ぎ慕っておりますの理由は、明公が聡明で仁徳英知をそなえ、漢王朝をお助けし、正しい人物を登用し、邪悪な人物をやめさせ、平和な世に導かれると期待しているからこそです。

今、勝手気ままに無実の者を殺せば、四海の内の人々は見聞きして、誰も彼もそっぽを向くことになりましょう。

孔融は魯国の男子でもあります。明日になれば早速衣をからげて去り、二度と参内いたさない覚悟です。」

孔融のこの諌言が功を奏し、曹操楊彪を釈放するんじゃな。

盛憲と孔融

『会稽典録』によると、盛憲と言う人物がおり、立派な度量を持つ人物時だったんじゃ。呉郡太守にまで昇進したが、病気のために官を去ったんじゃな。じゃがちょうどこの時孫策は呉郡、会稽一帯を平定すると、その地の実力者を誅殺していったと言うんじゃ。そして盛憲も以前から高い名声を持っておったことから目を付けられたんじゃな。

孔融は彼と親しかったために、何とかして彼を助けられないかと思い、曹操に手紙を送り、盛憲のような賢者を集めることが、天下を正しいありように戻すためには必要だ、と滾々と説くんじゃ。この時の孔融の文章は非常にへりくだっており、切なる願い、と言う感じなんじゃよ。

曹操はこの手紙に心を動かされ、盛憲を召して騎都尉に任じようとするんじゃが、その任命書が届く前に盛憲は孫権に殺害された、とあるんじゃ。

孔融にしては珍しいと思うんじゃが、ちと不思議なのは、曹操が50歳になるのは205年じゃ。そして孫策の脅威があったのは200年以前で、しかも盛憲を殺害したのが孫権と、孫策の脅威から5年以上も経ったところで孔融は手貝を出し、しかも孫策ではなく孫権に殺害されるという、時間も人もバラバラになっておるんじゃな。

この手紙の内容がどこまで信憑性あるのかは、ちと不明じゃな。

韋兄弟を評価

また孔融は韋康や韋誕兄弟も評価しており、彼の父の韋端に手紙を送って以下のように述べているんじゃ。

「先日元将(韋康)が参りましたが、底知れぬ才能が輝き渡り、度量大きく、意志強く、世に優れた人材であります。

また昨日仲将(韋誕)が参りましたが、うるわしい性格は誠実にあふれ、人情味とまごころがあり、一門を保つ主人の風格があります。

二つの真珠がどぶ貝の中から取れようとは思いもよりませんでした。大いに珍重いたす次第です。」

この辺りまではなかなか優れた面を見せていると思われるのう。

郗慮との関係

じゃがここから少し彼の難しい面が出てくるんじゃ。

献帝がかつて郗慮と孔融を目通りさせ、以下のように尋ねたんじゃよ。

「鴻予(郗慮の字)はいったい何に優れているのかね。」

孔融は以下のように語るんじゃ。

「道義に向かって共に進むことはできますが、臨機の対策を共に行うことはできません。」

これに対し郗慮は笏を上げて以下のように言うんじゃ。

「融が昔北海を治めていた時、政治はバラバラで人民は逃亡しましたが、その時の臨機の対策はどこにあったんでしょうか。」こうして孔融と欠点をあげつらい合い、不仲になったと言うんじゃ。曹操は手紙をやって彼らを和解させたと言うんじゃ。

仕方のないやつらじゃな、と言う感じだったんじゃろう。

また荀彧と、袁紹曹操の比較を行うんじゃ。じゃがこれは荀彧の方が正しかったのう。これは荀彧の紹介のところに載っておるぞい。 

kumajisan.hatenablog.com

 

曹操に対する皮肉1

さて、その孔融じゃが、曹操に対しては色々と複雑な感情を持っており、曹操が司空となり、威光恩徳がひましに盛大となっていく中にあって、以前と同じ感情を持ち続け、曹操への書簡は高慢そのものであったと言うんじゃ。

これが孔融の破滅へと繋がっておるんじゃな、残念な話じゃ。

『漢紀』によると、禁酒令を出した時のことじゃ。禁酒令は基本的に穀物の収穫が不足して、生活に必要な穀物を確保するために行うことが多いんじゃ。曹操も基本は酒好きで、自ら酒の醸造法を上奏するぐらいなんじゃが、それが禁酒令を出すと言うのは相当な状況だったと思うんじゃな。

じゃが孔融はそう言う世情にはお構いなしに発言するんじゃ。

「天には酒旗の星があり、地には酒泉の軍が連なり、人には美酒の徳があります。だから堯は千杯の酒を飲まなかったなら、その聖徳を完成できなかったでしょう。

それに桀と紂は女色によって国を滅ぼしたのに、今、命令を出して婚姻を禁止しないのですか。」

何かどこかで聞いたような話じゃが、孔融の場合は常に何らかの故事に結び付けて、相手をぐうの音も言わさんように攻め立てるんじゃよ。

じゃが楊彪を救う時の発言と違い、これは時勢を見た発言になっておらんから、為政者はどうしても彼の発言にストレスを感じてしまうんじゃな。

曹操に対する皮肉2

これは曹操が鄴を陥落させたときのことじゃ。『魏氏春秋』によると、この時曹操の息子の曹丕袁紹の次男、袁煕の嫁である甄氏を妻としたんじゃ。

この時、孔融曹操に手紙を送るんじゃな。

「周の武王が殷の紂王を討伐した時、妲己を息子の周公に賜与したとのことです。」

曹操はそのような故事は見たことも聞いたこともなかったが、曹操孔融が博学であることから、どこかの書籍に記されていると考え、色々調べたようなんじゃな。じゃがどうしても出典が分からん。

その後孔融に会った時に、その件に付いて質問すると

「現在のことから忖度すると、そうであったに違いないと考えただけです」と孔融は答えるんじゃな。ようは皮肉を言った訳じゃな。

じゃがさすがにこれは言い過ぎじゃろう。

本人の悪口程度ならば、まだ曹操は我慢もできようが、家族の話になるとことは別だったんじゃろうな。まあ家族のことを他所から好き放題言われて平気な人はあまりおるまい。孔融曹操の逆鱗に触れてしまった、と言うことじゃな。

孔融の処刑

208年、孔融孫権の使者に対して、曹操誹謗の発言をしたという罪で処刑されるんじゃよ。この時、孔融には息子と娘が一人ずつおったんじゃが、孔融が逮捕された時でも正座したまま立ち上がらなかったんじゃ。

側にいたものが「お前たちの父親が捕縛されたのに、立たないとは何ごとだ。」と言うと、二人の子供は「巣が壊されたのに、卵が割れない、と言うことなどあるものか。」

と言ったんじゃ。こうして二人の子供も刑場の露となるんじゃな。

親の咎が子に及ぶ、孔融自身の自業自得な面があるとはいえ残念な話じゃ。

 

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雑談ぢゃ

さて、孔融の紹介四回目じゃな。

孔融はやはりちょっと、毒を吐きすぎな感じですねえ

そうじゃな、世の中言って良いことと悪いことがある。特に家の話となるとさすがにほとんどの人が赤の他人にとやかく言われたくないわ、と思うんではなかろうかのう。

そう言えば家族に対する不満とかも、他人に言われると逆にイラっと来ることはありますね。

まあ、こういう無意識のうちに持つ共同体と言うのは面白いもんじゃな。さて、今回はここまでじゃな。次で孔融は最後じゃぞい。

分かりました、良ければ次も見てくださいね。それではまたです。