三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

孔融(こうゆう) 字:文挙(153~208)その5

さて、今回は孔融の紹介最後じゃな。

気が付けば荀彧と変わらんぐらいのボリュームになってしまったのう。ワシ別にそこまで孔融好きって訳ではなかったんじゃがな。

さあ、最後は能力評価等を見ていくとしようかのう。

  

さて、今回は孔融の紹介、今回が最後じゃな

今回は能力評価のみですか?

いや、そうじゃな、そもそも孔融がなぜこんなに長くなったかわかるかのう?

何故でしょうか、うーん、書簡とかの記述が多いからですか?

惜しいのう、それに近いが、そう言ったやり取りをする人物、つまり孔融とかかわりのある人物が非常に多いんじゃよ。

なるほど、色んな人との絡みがある分、どうしても記述が長くなるのですね。

そう言ったことから、能力評価の前に今まで紹介してきた以外で、孔融とかかわりがある有名な人物を簡単に紹介していこうかの。中にはちと意外な人物もおるぞい。

人物紹介

太史慈

呉の武将として有名な太史慈じゃな。彼は孔融が黄巾賊に城を囲まれている時に城に乗り込み、劉備の下に助けを求めに行き、劉備から兵を借りて孔融を救出するんじゃよ。

劉備

少し書いておるが、上で太史慈劉備に救援を求めた後、劉備孔融青州刺史として推薦しておるんじゃ。そして劉備陶謙から徐州を譲り渡されようとした時に、これを受けるよう勧めるんじゃ。

鄭玄

彼も孔融が尊敬し、郷を一つ作っておるぐらいの人物じゃが、実は彼は後漢でも最高クラスの学者なんじゃな。そして実は劉備の師匠の盧植とは同門だったんじゃよ。

ちなみに鄭玄の弟子の一人に、後に劉備に仕える孫乾がいるんじゃよ。

張紘

呉の張紘は一時期許昌に派遣されておったんじゃが、この時に孔融らと親しい交わりを結んだんじゃ。この交流は張紘が呉に戻った後も続き、孔融とは書簡のやり取りをやっておったんじゃ。

虞翻

虞翻孔融に手紙を送り、己の著した『易経』の注釈を進呈したんじゃ。孔融はこれを非常に高く評価し、東南地が生み出す素晴らしいものが、会稽の竹等にとどまらないことを知りました、と伝えるんじゃよ。

 

禰衡とかは有名じゃから、ここでは敢えて書かんが様々な人物との繋がりがあるんじゃな。と言ったところで人物紹介はここまでじゃな、続いて能力評価と行くぞい。今回は全作品に出演しておるぞい。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 孔融(20歳)  20 50 130 45
 ↓ ↓ ↓  ↓↓↓
 孔融(45歳)  46 79 167 73

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孔融はそのあふれる才知はやはり知謀として評価したいところじゃ。これだけなら曹操にも引けは取らんじゃろう。じゃがそれ以外はなかなか厳しいのう。孔融の場合、基本周りが動いて何とかしてくれる、と言う形が多いんじゃな。

時に太史慈、王脩等が働くことで何とかなり、孔融自身で成功した実績と言うのはあまり多くないんじゃな。それ故上記のような尖がった能力になったんじゃよ。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 孔融  30 5 72 76 65

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 孔融  1 1 2 9 11 14

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 孔融  2 9 7 12 15

 

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雑談ぢゃ

さて、孔融の能力評価じゃ。

師匠は随分尖がっていますね。知謀の高さに対して政治の低さが半端じゃないですよ。

うむ、天舞さんとコーエーテクモさんはそこそこ政治とかあるが、じゃがのう。

何か引っかかるんですか?

うむ、なんか中途半端にそこそこ政治の高い孔融なんか、孔融じゃない、と言う気になってしまうんじゃw

またそんな理由で・・・さすが師匠w

いやいや、じゃが実際に孔融は邴原にたしなめられたり、時宜に適っていない献策をする等、政治的には問題があるようじゃからな。

なるほど、ちょっと納得です。鄭門三国志は全体的に低いですね。

そうじゃな、知謀以外はワシの評価に近いのかもしれんのう。そう言えば一つ言い忘れておったことがあるんじゃが。

ハイ、何でしょうか?

孔融を名士を代表する、孔子本家の子孫と勘違いしている方もおるから言うんじゃが、実は孔融孔子の直系子孫ではないんじゃよ。

え、傍系なんですか?

そうじゃ、じゃから孔子一族としての名声の高さはあるものの、彼を処刑することが儒教勢力に対する宣戦布告とは言い切れんのじゃよ。

なるほど、その辺りは勘違いしている人もいるかもしれませんね。

まあ直系の方は後漢末の混乱の中で、名前がしばらく出てこないからのう。孔融が同時代の孔一族の中でも、目立つ存在だったのは確かじゃ。

なかなか厳しい時代なんですねえ。

うむ、さて、長くなったが孔融の紹介はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。

良ければ次も見てくださいね、よろしくお願いします。