三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

是儀(しぎ) 字:子羽(?~?)その1

さて、今回は是儀と言う人物の紹介じゃ。

ワシの記憶もはっきりせんが、彼は演義に出ておったかのう。と言う人物なんじゃが、もちろんそれだけの人物ではないんじゃな。それでは彼の事績を見ていくとしようかのう。

  

さて、今回は是儀と言う人物じゃ。彼のことは知っておるかのう?

うーん、何かで、「是」を「し」と読むんだ、と思ったような記憶はあるのですが、ゲームだったかもしれません。

確かに三国志14には出ておるから、それかもしれんのう。さてそんな是儀じゃが、もちろん並の人物ではなく、呉書の方で立伝される人物なんじゃな。

なるほど、それでゲームとかにも出てくるんですね。

そうじゃ、それでは順に彼に付いての紹介をしていくとしようかの。

人物紹介

彼の姓の秘密

上で「是」を「し」と読む、と言うのは不思議と書いているが、実は彼の姓にはいわくがあるんじゃよ。

元々の姓は「是」ではなく「氏」だったそうなんじゃ。これだと「し」とすんなり読めそうじゃの。なぜ、彼が改姓をしたのか、史書を見るとそこには孔融が絡んでおるようなんじゃな。

孔融は言葉遊びで是儀をからかって言ったんじゃよ。

「氏と言う字は民の上が欠けたものだ。だから是と改めると良かろう。」

こうしたことがあって、姓を是と改めたんじゃよ。じゃが、この改姓はちと波紋を呼ぶんじゃ。

徐衆の批判

徐衆の『異同評』によると、古の姓を定めるにあたっては、あるいは生まれた土地の名を取り、あるいは官職の名を取り、あるいは祖先の名を取ったのであって、それぞれにしかるべき意義内容があって、その家系の存在を明らかにするものであった。

ー中略ー

しかるにここで孔融が、文字を分解して、みだりに不吉な字だと解釈し、氏儀にその姓を改めさせたのは、その本を忘れ祖先を誣うるものであって、不当なことではないか。

他人にその姓を変えるように勧め、勧められたほうでもその意見を納れて氏名を変えたりするのは、孔融が間違っていただけではなく、是儀の方もそれに従うべきではなかったのである。 

豆知識

上記の批判じゃが、これにはちと別の意見もあるんじゃな。元々「是」と「氏」の文字は古い文字資料では共通で使用することが多かったようなんじゃよ。

三国志時代の鏡の銘文でも「陳氏」と書くべきところを「陳是」と入れておるところがあるんじゃ。

これによるなら、必ずしも孔融の意見だけによって「氏」を「是」に改めたのではなく、改姓にはまた別に何らかの由来があったのかもしれん、とのことじゃな。

ワシもどちらかと言えばこちらの意見に賛成じゃな。

少なくとも孔融に言われたから、と言うような安直な理由だけで改姓したのではないと思うんじゃよ。

 

劉繇の下へ、そして

元々は北海で仕事をしておった是儀じゃが、戦乱を避けるため、後に劉繇を頼って江東の地に移住したんじゃ。これは恐らく青州黄巾賊の被害を避けるためじゃろうな。

じゃがここも安住の地ではなかったんじゃな。周知のとおり劉繇はこの少し後、孫策に敗れるんじゃ。これにより是儀は更に流れて会稽に移り住むんじゃよ。

そして、孫策が暗殺に倒れ、孫権がその後を継ぐと、是儀の評判を聞いておったのか、手厚い条件で是儀を招いたんじゃな。

是儀が孫権の下へ出仕すると、その信任を受け、機密事項の処理を任されて、騎都尉に任ぜられたんじゃよ。

この機密事項じゃが、おそらくは諜報収集と情報処理、それを基にした策略を担当してたと思うんじゃよ。

謀議への参画

そう考える理由じゃが、実際この後、呂蒙関羽に襲撃をかける計画を立てた時、孫権は事の可否について是儀の意見を求めるんじゃが、是儀はその計画に全面的に賛成して、孫権にこれを許可するようにと勧告したんじゃ。

関羽討伐のような秘中の謀議に携わっておる辺りに、是儀の役割が見えてくるようじゃのう。

是儀は関羽討伐にも加わり、その功績により忠義校尉の官を授けられることになったんじゃ。是儀は一旦これを辞退しようとするんじゃが、孫権は公式の命令書を送り、受けさせるんじゃよ。

荊州が平定されて武昌に都が置かれると、是儀は裨将軍の位を授かり、後には都亭侯に封ぜられ、侍中の職を代行したんじゃよ。この時孫権は更に兵を預けようとしたんじゃが、是儀は自分には軍事の才能がないから、と固辞して受けなかったんじゃ。

是儀の活躍はこれに留まらず、黄武年間(222~229年)、彼は皖に派遣され、、将軍の劉邵の下で魏の曹休をおびき寄せる計略を練らせたんじゃな。

228年に行われた石亭の戦いじゃな、この戦いで曹休は散々に打ち破られるんじゃよ。

この功績により是儀は偏将軍に昇進し、朝廷に入って事務全般の処理に当たり、広く諸官庁の間を取りさばき、訴訟沙汰の処理も行った、とあるんじゃ。調整役、取りまとめ役じゃな。

加えて皇族や貴族の子弟達の学問係に当たることも命ぜられた、とあるんじゃな。

さて、もう少し長くなりそうじゃから いったんここで切るとしようかのう。

 

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雑談ぢゃ

さて、今回は孫権が皇帝になるまでのエピソードじゃな。

結構な策略家、と言う印象がありますね。特に関羽曹休撃破の謀議に関わっている、と言うのは結構すごいじゃないですか。

そうじゃな、呉は豪族の寄り合いのような国家じゃから、皆が一国一城の主のようなもんなんじゃ。じゃからあまり参謀らしい参謀と言うのは少ないんじゃな。是儀は参謀らしい参謀の一人と言えるかもしれんのう。

郭嘉とかのように具体的な進言とか謀議にどの程度関わっているのか、が欲しいところですね。

うむ、しかし孔融の下にいたのが結構呉にも流れておるのう、太史慈とかもそうじゃしな。

それだけ黄巾の乱の影響が大きかった、と言うことですかね。

そうじゃな、それにより中原から人員が江南に流れ込み三国形成の素となった、と言うのも皮肉な話じゃな。さて、今回はここまでじゃな、後半に続くぞい。

分かりました、次もよろしくお願いしますね。それと人物の索引を張っておきます。興味ある方がいたらご覧になってくださいね。

 

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