三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

邴原(へいげん) 字:根矩(?~?)その1

さて、今回紹介するのは邴原じゃな。字は根矩、生没年は不明じゃ。

すでに孔融のところで少し書いておるが、青州を代表する偉人の一人じゃな。

少し量が多くなるので、彼も二回ぐらいに分けて紹介するとしようかの。

  

さて、今回は邴原と言う人物じゃ。彼のことは既に一回紹介しているの。

孔融をやり込めていましたね。なかなか優秀な人物だった、と言うことですね。

そうじゃ、こういう人物ももっとスポットが当たると良いのう。

そうですね。それでは早速紹介をお願いします。

うむ、それではいくぞい。

人物紹介

若い頃の邴原

さて、若い頃の邴原については本伝には詳しい説明はないが、『邴原別伝』には以下のように記述されておるんじゃ。

邴原は11歳で父を亡くし、家は貧しく、早くから孤児であったそうなんじゃ。隣家に寺子屋があるが、月謝が払えず通うこともできない。邴原が隣家の前を通って泣いていると、先生が尋ねるんじゃ。「坊主、何が悲しいのだ。」

これに対して邴原は以下のように答えるんじゃ。

「孤児であると傷つきやすく、貧乏であると感じやすいものでございます。大体勉学している者は必ずみな父兄が揃っている方たちです。

(悲しいと感じる)一つ目の理由は、彼らが孤児でないことをうらやましく思うからで、二つ目の理由は彼らが勉学できることをうらやましく思うからです。」

そして学びたくても月謝が払えない、と嘆くとこの先生は「坊主、仮にも意志があるなら、わしはとにかく教えよう。報酬を求めたりはしないぞ。」

こうして勉強できるようになったんじゃ。この先生も名前は残っておらんが、立派な人物じゃのう。

こうして邴原は一冬の間に『孝経』と『論語』を暗誦し、年少者の中では際立って優れていた、と評判になるんじゃよ。

師匠求めて三千里?

さて、続けて『邴原別伝』によると、成長して邴原は金玉に比せられるほど立派な品行を保った、とあるんじゃ。そして彼は師を求め遠くに遊学したいと考え、安丘の孫崧と言う人物の下に赴くんじゃよ。

じゃが孫崧はこれを辞退するんじゃな。孫崧は以下のように言うんじゃ。

「君の郷里の鄭君(鄭玄)を君は知っているかね?」邴原は「はい」と答えるんじゃ。孫崧はそこで答えるんじゃ。「鄭君の学問は古今を通覧し、博聞強記で事物の奥底にある真理を探り出し、まことに学者の師表である。君は彼をさておいて、千里を旅してきた。言ってみれば鄭君を東隣の丘さん扱いしていることになる。

君はそれが分らずに、はい、と言ったようだが、どうじゃな?」

ここで言う東隣の丘さん、と言うのは孔丘、一般的な通り名で言うなら孔子のことじゃな。お主は孔子の偉大さを理解せずに、東隣の丘さん扱いしているのと同じことを鄭玄に対して言っているのだがどうかね?と孫崧は言っておる訳じゃな。

じゃがこれに対し邴原は以下のように答えるんじゃ。

「先生のお説は苦い薬、良い鍼とも言うべきです。しかしながら私のささやかな気持ちを理解なさってないようです。

人にはそれぞれ希望がございまして、求めることは同じではありません。

ですから、山に登って玉を採るものもあれば、海に入って真珠を採る者もあるのです。」

つまり求めるものが違うのだから、鄭玄に師事することが誰にとっても最上の選択とは限らない、と言うことじゃな。

孫崧は自分とは器量が違うと感じたのか改めてことわりの言葉をのべ、更に以下のように言うんじゃ。「兗・豫の人物には私の知っている人物も多いが、君ほどの人物はいなかった。」と書物を分けてあげるんじゃ。

もっとも邴原は、書物を得ること自体にはあまり意味を感じておらず、師と呼べる人物を探すのは、気高い思想を持っているものと通じ合うことが大事と考えるから、と思っておったようじゃな。

そこで書物をしまって、更に旅に出たようなんじゃよ。

酒豪、邴原

さて、邴原は上のように更なる師を求め、気高い思想の持ち主と友誼を結ぼうと旅に出るんじゃな。その期間は8~9年に渡り、供も連れず一人で歩き、行李を背負って刻苦勉励したんじゃ。

彼はその間に色んな人物と交友関係を結ぶんじゃが、その中には陳羣の祖父に当たる陳寔や、公孫瓚劉備の師である盧植等がおったようじゃ。

こう考えると、邴原の生没年は分らんが、曹操劉備達よりも更に一世代ぐらい上の人物かもしれんのう。曹操が155年、鄭玄が127年生まれじゃから、140年ぐらいの生まれなんじゃなかろうか。

彼が帰郷しようとした時、師や友人は邴原がこの8~9年間一滴も酒を飲んでいなかったことから、酒が飲めないと思い、米と肉を集めて送ったんじゃ。

ここで邴原が衝撃の発言をするんじゃよ。

「(実は自分)元来は酒をよく飲んだのですが、酒はただ気持ちを荒ませ、学業をダメにすることから、断っていただけです。今、遠くに分かれるにあたって、はなむけをしてくださるのですから、一度酒宴を催しましょう。」

そこで皆が一緒に座って酒を飲むんじゃが、朝から晩まで飲み続けても酔うことがなかった、とあるんじゃ。当時の酒はどぶろくでアルコール度数も低いとは言え、なかなかの酒豪と言えるじゃろうの。

さて、帰郷してからはいよいよ孔融に召し出されて以降の話となるんじゃが、今回はここまでかのう、いったん切るとするぞい。

 

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雑談ぢゃ

さて、今回は邴原の若い頃のエピソードじゃな。

そう言えば以前別伝は、その人物の子孫が書いたものが多く、過剰に持ち上げる傾向がある、と言ってたように思いますが、どうですか?

そうじゃな、別伝は確かに親族によって書かれたものも多く、過剰評価する傾向があるから、何でも信用するのは危険じゃ。じゃがまあ今回の邴原の話はそこまで過剰に邴原を持ち上げるような内容でもないからのう。

確かにそこまで特別な才知を示している、と言う訳ではありませんね。感心したのは鄭玄に付かなかった理由を述べる部分ぐらいでしょうか。

うむ、酒に強い、とか言うのも特別たいそうなエピソードでもないからの。自分の能力評価において、基本的に政治と知謀は高め、と言うベースが出来上がったぐらいかの。

それにしても、若いころと言っても140年頃の生まれだとすると、191年ではもう50歳前後ですね。実は孔融よりも年上になるんですね。

そうじゃな、そう考えると、孔融が邴原にやり込められる、と言うのもまた少し違った情景が浮かんでくるのう。さて、今回はここまでじゃな、次は孔融に仕えるあたりからの話じゃな。

次もよろしくお願いしますね。それと以下に人物の索引を張っておきます。興味ある方がいたらご覧になってくださいね。

 

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