三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

邴原(へいげん) 字:根矩(?~?)その2

さて、今回は邴原の二回目じゃな。

今回からは孔融に出仕後の話が中心じゃな。できれば今回で終わらしたいが、どうなるかのう。

  

さて、今回は邴原の二回目じゃな。

孔融時代はちらりと書かれていますが、曹操以降は知らないですね。

その辺りまでいきたいのう、それでは早速紹介と行こうかのう。

人物紹介

孔融の招聘

さて、地元に戻ってから邴原は孔融に召し出され、計佐に任命されたんじゃよ。この頃に孔融とのいざこざが発生するんじゃ。これは孔融のところに載っておるぞい。 

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まあこのやり取りから何となく想像はつくと思うんじゃが、孔融と邴原の関係はあまり良好ではなかったようじゃな。

後に政治が賄賂によって成り立っているのを見ると、家族を引き連れ鬱洲山の山中に入ったんじゃ。郡が有道と言う官吏推挙の一科目として推挙すると、孔融は書簡を送って、邴原を説得するんじゃ。

「本性を磨き正しさを保持し、清浄淡白で高潔さを守り破滅しかかった領土には立ち入らず、長らく安楽な土地に潜んでおられるが、王室は災難多く、西方鎬京に移住されておる。

ー中略ー

根矩よ、根矩よ、やってきてくれ。」

じゃが結局邴原は孔融の推挙を断り、遼東に赴いたんじゃ。公孫度のところじゃな。遼東には他にも王脩や太史慈も行ってた時期があり、また公孫度の方も青州方面に進出しておったことから、この間の海路での移動は普通に行われておったようじゃのう。

遼東での邴原

遼東では虎が多く生息しておったようじゃが、邴原の住む村落だけは虎による災禍がなかった、と言うんじゃ。じゃがまあこれは運が良かっただけ、じゃろうな。まさか邴原の威光で虎もおそれて近寄れんかった、と言うつもりであれば、そこは別伝特有の持ち上げじゃろうな。

次のエピソードはちと面白いんじゃ。

ある日邴原が道端に落ちている銭を拾い、何気に木の枝にそれをかけておいたんじゃ。すると村人誰もそれを取らず、逆に木の枝に新たに銭をかけていく人が増えていくんじゃよ。

これに気が付いた邴原が村人に何故そうするのか尋ねると、「神樹だと思ったからです。」と答えたんじゃ。邴原は自分の些細な行動で淫祀ができたことを嫌悪し、村人に事情を説明し、銭は皆で集めて鎮守の供物としたんじゃよ。

基本的に合理的な考え方の持ち主、と言うことになるのかのう。

その後、郷里に帰ろうかと思い、途中まで来ると、孔融が書簡をまた送って、招聘しようとするんじゃ。これを読むと再び邴原は遼東へUターンするんじゃよw

何と言うか孔融もこりないし、邴原も完全に嫌気がさしておったんじゃろうなw

邴原と劉政

ちなみにこの時期、遼東には劉政と言う同郷の人物もおったんじゃ。公孫度は劉政を恐れ憎み、殺害しようと考え、劉政の家族を全員逮捕したが、劉政だけは脱出に成功したんじゃ。

公孫度は諸県に布告するんじゃよ。「みだりに劉政をかくまうものがおれば、彼と同罪である。」誰も劉政をかくまおうとはせず、追い詰められた劉政は邴原を頼るんじゃ。

『魏氏春秋』によると邴原に身を寄せた時に劉政は以下のように言うんじゃ。

「窮鳥、懐に入る。」すると邴原は次のように受け応えるんじゃ。

「どうして(私の)この懐に入れるとわかったのかねw」

下手をすれば自分も処刑されかねん状況で、笑って友を受けれようとする邴原の器の大きさを示すエピソードじゃな。

彼は一月あまり彼をかくまったんじゃが、丁度この時に太史慈が帰郷しようとしていたので、彼に劉政を預けたんじゃ。

そしてかれは公孫度の下に赴き、以下のように言うんじゃ。

「将軍が先日劉政を殺そうとなさいましたのは、彼がご自分の害になると考えたからでしょう。今、劉政はすでに去りました。あなたの害は取り除かれたのではないでしょうか。」

公孫度は「そうだ」と言ったんじゃ。更に邴原は言うんじ「あなたが劉政を恐れたのは、彼に知略があるからです。今、劉政はすでに逃れ、脅威が去ったのに、どうして劉政の家族を拘留しておくのですか。彼らを許すのが一番です。恨みを二重にしてはいけません。」

こうして公孫度から、劉政の家族を釈放させるのに成功するんじゃよ。

青州への帰還

さて、公孫度から釈放された家族に対し、邴原は彼らに旅費も渡して皆故郷の郡に帰れるようにしてやったんじゃ。

その後も邴原自身は遼東に居続けるんじゃが、10余年経過後、故郷に帰るんじゃよ。南へ出発して数日して公孫度は気が付いたが、もう追いかけても無駄だと悟ったので、彼を追いかけることはしなかったんじゃな。

郷土に帰ってからは礼学を講義し『詩経』『尚書』を吟誦したんじゃ。

いつしか門下生数百人、道義に帰服する者数十人であった。その名声はかつて師にしたらどうだ、と言われた鄭玄にも並び、青州に邴・鄭の学問アリ、とまで言われるようになったんじゃよ。

そして曹操に仕えるようになるんじゃが・・・今回はここまでかのう。丁度キリの良いところじゃな。

 

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雑談ぢゃ

さて、今回は邴原の孔融時代から遼東時代のエピソードじゃな。

劉政と言う人物は全然知りませんが、何かすごいエピソードはあるんでしょうか?

どうじゃろうなあ、他ではあまり聞かないから、分らんのう。

それにしても公孫度の下に赴いて、劉政の家族を助けるとか豪胆ですね。

そうじゃな、下手したら自分が処刑されてもおかしくない立場じゃからの。

かくまったら同罪だ、と布告されていたのに、当たり前のようにかくまっちゃうんですものね。

うむ、豪胆じゃよな、なかなかできることではないからのう。さて、今回はここまでじゃな、次は曹操以降、それと能力評価じゃな。

次もよろしくお願いしますね。それと以下に人物の索引を張っておきます。興味ある方がいたらご覧になってくださいね。

 

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