さて、気を取り直して、三国志の武将昌豨の紹介じゃな。
ここを見てくださっている方達じゃと、多分何度か見た名前じゃなかろうか。
さて、今回は昌豨の紹介じゃな。
覚えておったか、さすがじゃのう。そうじゃ、その昌豨じゃな。彼はどんな人物だったのか、詳細を追うことはできんかもしれんが、見ていくとしようかのう。
わかりました、よろしくお願いします。
人物紹介
臧覇の一党として
さて、昌豨の名前が出てくるのは呉敦や尹礼同様黄巾の乱の時じゃな。この時に臧覇は陶謙に従って黄巾の賊を攻撃して打ち破り、騎都尉に任じられるんじゃ。昌豨はその一党として行動を共にしておったようじゃな。
その後、呂布が曹操に敗れると、臧覇達は南を隠すんじゃ。この辺りもすでに語られておる通りじゃの。
曹操は臧覇を探し出し、話をして彼の人物像にほれ込むんじゃ。そして曹操は臧覇に命じて尹礼同様、呉敦も招かせるんじゃよ。
じゃが、この時尹礼や呉敦はそれぞれ太守に任じられた記述があるんじゃが、昌豨に関してはその辺りの記述が見当たらんのじゃ。
その後の彼の行動範囲が東海であったことから東海の相に任じられただったようにも思えるんじゃが、はっきりせんのう。
ともあれ、ここからの昌豨は反乱と降伏を繰り返す人生だったようじゃ。
最初の反乱
蜀書の先主伝のところに朱霊らが帰還すると、劉備は徐州刺史の車冑を殺害し、関羽を下邳に残して守備をさせ、自身は小沛に戻った、とあるんじゃ。
そしてこの時東海の昌豨は反乱を起こし、郡県の多数が曹操に背き、その軍勢は数万に達した、とあるんじゃ。
そしてこれは張儼の『黙記』に記載されておる『後出師の表』の一節じゃが、ここで「曹操は五度昌豨を攻撃しましたが下すことができず」と言う記述があるんじゃよ。
じゃがこれは記録としては少々おかしいんじゃよ。劉備はこの時曹操によって攻められて逃げており、また関羽も曹操に降伏しておる。
また袁紹との対決時、昌豨のおる東海のすぐ北に臧覇達はおったんじゃが、彼らは袁紹と対峙する曹操を援護するために徐州から北の青州に攻め込んでおるんじゃ。
もし昌豨の反乱を鎮めることができず、南に不安の種が残った状態で、臧覇達は青州を攻めることはできるじゃろうか。と言うことでここの反乱も一旦は鎮められた、と思うんじゃな。実際魏書の武帝紀にも関羽を降伏させた後、昌豨も攻めて、これを破った、との記載がある。この時一度昌豨は降伏したと思われるんじゃ。
二回目の反乱
これは魏書の張遼伝の所に書いてあるんじゃが、袁紹が敗れた後、再度昌豨は反乱を起こしたようで、曹操は張遼と夏侯淵を東海に派遣し、昌豨を包囲したんじゃ。じゃが数ヶ月経っても城は落とせず、兵糧が尽きたので、軍を引き揚げ帰還することが議論されたんじゃが、この時張遼は夏侯淵に進言するんじゃ。
「数日来、包囲陣を巡行するたびに、昌豨はいつもじっと私を見つめているうえ、矢を射ることもまれになっております。
これはきっと昌豨の考えがぐらついており、そのために力の限り戦わないのです。
私は上手く気を引いて彼と話をしてみたいと存じます。あるいは味方に引き入れることができるかもしれません。」
そして昌豨をうまく呼び、「早く帰服する者は大きな褒美をいただけるぞ。」と説得し、昌豨を降伏させるんじゃ。張遼はその後、昌豨の家に入り、妻子に挨拶したんじゃ。昌豨は喚起し、張遼について曹操の下に出頭したんじゃ。
じゃが曹操はこの張遼の行動に危うさを感じたようで「これは大将のやり方ではないぞ。」ととがめるんじゃ。実際一軍の将が単独行動で敵の武将と会合する、と言うような軽はずみな行動はやってはならないこととして兵法書でもきつく戒められておるんじゃ。夏侯淵もそれで最後は戦死しておるからのう。
ともあれ、ここでも再度曹操は昌豨の降伏を受け入れたんじゃよ。
三回目の反乱
次は冀州が平定された頃じゃから、204年頃じゃろうか。
再び昌豨が反乱したと言うことで、今度は于禁が派遣されるんじゃな。じゃが前回同様、昌豨の守りは固く、なかなか城は落とせん。そこに夏侯淵が派遣されてきたんじゃな。夏侯淵は于禁と協力することで、昌豨を追い詰めることに成功するんじゃ。
そして昌豨は、旧友の間柄であった于禁の下に再度降伏するんじゃ。
諸将は昌豨を曹操の下に送るべき、と主張するが、于禁は包囲されて後に降伏した者は赦さない、と法にはある、と主張したんじゃ。
そして自身が出向いて昌豨に別れを告げ、涙を落としながら彼を斬ったんじゃ。
裴松之はこの于禁の行為を非難しておるが、こう何度も反乱を起こされていたのでは仕方なかったのではなかろうか。
と言ったところで昌豨の人物紹介は終わりじゃな。防衛有利とは言え、張遼、于禁、夏侯淵等の攻撃を凌いだ手腕は見事だと言えるのではなかろうか。
さて、続いて能力評価じゃな。今回は全作品に出演しておるぞい。
能力評価
昌豨は曹操に反乱しつつ、張遼や于禁らの攻撃を何度も凌いだ点から、統率の評価を高くして、防衛力が高い人物、と言う形にしたんじゃよ。ただ統率が高いだけでなく、計算高さなどを含め、軍事や知謀もそれなりの評価じゃな。
その一方反復常なき性格と、最後に于禁を頼って降伏した点から、政治的にはあまり褒められる部分がなかったと判断し、政治能力は抑え目じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、昌豨(昌覇)の能力評価じゃ。
あ、そう言えば昌豨の別名の昌覇って臧覇の名と被るんですね。もしかしてそれで変名したのでしょうか?
どうじゃろうな、ちとそこまでは分らんのう。
それにしても何故昌豨は何度も裏切ったのでしょうか?
うーん、利に敏い部分はあったようじゃからなあ、はっきりせんが己の欲に負けたんではなかろうか。
それにしても防衛力は凄いですね。
まあこの時期の城攻めは相当難しかったからのう。諸葛亮も陳倉を落とせんかったしのう。曹操はその辺りがちと異次元じゃな。
そうですね。それでも他の方よりは師匠は統率(防衛力)は高いですね。
そうじゃな、こう言う武将は評価できる実績を持っておる、と思えるからのう。さて、今回は昌豨の紹介じゃったが、どうじゃったかのう。面白かったならば次もまたご覧くだされ。
良ければ次もご覧ください。それと他の方で興味ある方がいらっしゃったら、以下の索引をご覧くださいね。