三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

陶謙(とうけん) 字:恭祖(132~194)その1

さて、今回紹介するのは陶謙じゃな、字は恭祖。

191年時点で60歳じゃからかなりの高齢じゃな。そんな彼の紹介をしていくとしようかの。

 

さて、今回は陶謙の紹介じゃな。彼もまた癖の強い人物じゃよ

演義だと人の好いお爺ちゃん、と言うような印象ですが違うんですね?

実はある人物との関係から、このばらばらの評価になったのではないかと思われるんじゃ。

ぱっと思いつくのは劉備ですか?

なんじゃ、あっさり答えを書いてはつまらんじゃろう。

とは言っても他に思い当たる人物はいませんし・・・。

まあ仕方ないの。しかし岝融と言い、徐州は曲者が多いのう。それでは紹介と行くぞい。

はい、よろしくお願いします。

人物紹介

さて、陶謙じゃが、彼については史書裴松之の注釈とで人物像が大きく違ってくるんじゃ。そこでまずは史書陶謙像と注釈の陶謙像の違いを見比べるとしようかのう。

まずは史書陶謙じゃな。

史書陶謙(徐州刺史時代)

史書によると陶謙は丹陽の人物である。若い時から学問好きで、大学の学生になり、州と郡に出仕して茂才に推挙され、盧県の令に任命されたんじゃ。

その後幽州刺史に昇進し、中央に召し出されて議郎に任命され、車騎将軍の張温の軍事行動に参加し、韓遂討伐に西方へ行ったんじゃ。

だがちょうど徐州で黄巾の徒が放棄したため、陶謙を徐州刺史に任命したんじゃよ。

彼は賊徒を攻撃し、これを敗走させたんじゃ。

そして董卓の乱が勃発した時には諸侯が反董卓連合軍を結成する中、彼は使者を差し向けて、間道伝いに貢物を献上したため、安東将軍・徐州牧に任じられたんじゃよ。

徐州牧時代

さて、この辺りから陶謙の動きがおかしくなってくるんじゃ。

この時期、徐州は裕福で穀物も豊かだったので、流浪する民衆の多くがここに流れてきた、とあるんじゃ。じゃが徐州の辺りは黄巾残党もおるし、そこに人民がt流入すると言うのはちと腑に落ちんのじゃよな。

ともあれ、そんな徐州でじゃが、陶謙の動きが問題になるんじゃよ。

彼は道義に背き、感情に任せて行動をした、とあるんじゃ。例えば笮融のところで出てきた趙昱は徐州地方の名士であったにもかかわらず、忠義で正直な人柄のため、疎んぜられた、と言うんじゃよ。

逆に曹宏等の小人物であったにも関わらず、陶謙はこれを信頼し、任用するというありさまだったんじゃよ。

刑罰と法律は均衡を失い、善良な人々は酷い目にあわされ、このため次第に混乱が深まって行ったんじゃよ。

また下邳の闕宣は自分勝手に天子を名乗っていたんじゃが、こともあろうに陶謙は彼と同盟を結んでしまい、一緒に略奪を働いていたと言うんじゃな。

更に後になって、闕宣が邪魔になったためか、闕宣を殺害し、彼の軍隊を吸収したと言うんじゃよ。なかなかこの辺りは岝融顔負けじゃのう。

曹操との争い

193年(初平4年)、曹操陶謙を征討し、十余城を攻め落とし、彭城にて陶謙と決戦を行うんじゃ。

この時陶謙の軍は敗走し、死者は万単位に上り、泗水はこのために流れをせき止めた、とあるんじゃ。じゃがこれはあくまでも戦闘の結果の話であって、曹操の虐殺とは何の関係もない話じゃのう。

この後、曹操は兵糧が尽きたため、軍を引き揚げ帰途についたんじゃ。

しかし翌年、曹操は再度東方遠征をおこない、瑯邪、東海の諸県を攻略平定したんじゃ。陶謙は怖気づき、丹陽に逃げ帰ろうとしたんじゃよ。

じゃがちょうど兗州で張邈、陳宮らが曹操に対し反乱を起こし、呂布を引き入れたので曹操は引き返し、陶謙は最大の難事を切り抜けることができたんじゃ。

じゃがここまでじゃな。陶謙はこの年に亡くなってしまうんじゃよ。

と言ったところで史書陶謙の紹介はここまでじゃな。注釈の方の紹介は次回載せていくとしようかの。

 

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