三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

陶応(とうおう) 字:不明(?~?)

さて、今回は陶謙の息子、陶応の紹介じゃな。

とは言え、彼の人物像はほとんど見えてこんのじゃよ。

字、生没年とも不明じゃな。それでは彼の記録について見ていくとしようかの。

 

さて、今回は陶謙の息子陶応の紹介じゃ

そう言えば演義の話ですが、陶謙は何故自分の息子を跡継ぎにしなかったのでしょうか?

・・・なるほど、そこは色々と誤解があるかもしれんのう。

?どういうことですか。

うむ、三国志の時代は当たり前のように世襲しておるが、元々郡太守や刺史はそう言うものではないんじゃよ。今の日本で言う県知事とかを思い出してもらったらいいが、結果として世襲しておることはあっても(最近あったかのう?)、江戸時代の藩主と違い、世襲制度ではないじゃろう。

任期がきたら、選挙しますからね。大体現職有利ですが。

そうじゃ、後漢の場合も基本はある一定期間、太守や刺史を務めたら次の任地へ赴く。そして癒着を防ぐため、地元の太守や刺史には原則として就けないようになっておるんじゃよ。

そう言えば以前ちらっとそんな話をしていましたね。つまり陶謙が次はワシの息子が刺史ね、とは言えない、と言うことですね。

そう言うことじゃな、そう言うのができるのは後漢から半分独立国として立った連中ぐらいじゃろう。該当するのは袁紹曹操孫策袁術劉表、劉焉ぐらいじゃろうな。後は皆、基本は後漢王朝の臣下としての動きしかしておらんと言うことじゃよ。

なるほど、何となく理解できました。それでは陶応の紹介をお願いします 

人物紹介

さて、とは言え陶応の紹介は非常に短いんじゃよ。

魏書陶謙伝の注釈に書かれておる『呉書』に、陶謙が亡くなった時、張昭らが哀悼の辞を作った、と言う旨のことが書かれておるんじゃが、そこの最後に、陶謙の二人の息子は仕官しなかった、とあるんじゃな。

その息子二人の内の一人が陶応じゃな。並び順から行くと陶応は次男だったと考えられるんじゃ。

ちなみに陶謙のところでもよく出てきた『呉書』じゃが、これは正史の『呉書』とはまた別の者になるんで注意が必要じゃ。

こう言った同じような名前の別の人物が作成した歴史書は、いくつかあるんじゃよ。

ここで出てくる『呉書』は韋昭と言う人物が作成したものじゃな。彼はいずれ登場する人物なので覚えておくと良いぞい、とは言え紹介できるのは何年先になるかのう、ほっほっほ。

と尺稼ぎ(w)をしたところで陶応の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回は・・・おっと天舞さんに出ておるのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 陶応(20歳)  55 30 45 40
 ↓ ↓ ↓ 
 陶応(45歳)  84 57 73 68

f:id:kumajisan:20210414215831p:plain

 

陶応は実績がほとんどないことから能力の評価は非常に難しいんじゃ。こういう時は父陶謙の能力評価を参考に、少しスケールダウンさせたような感じじゃな。

陶謙が軍事と知謀が高めだったことから、陶応も同じ傾向とさせてもらったぞい。実績がないから値は全体的に抑え目じゃな。

  

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 陶謙  1 3 3 5 4 6

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

 

雑談ぢゃ

さて、陶応の能力評価じゃ。彼は実績がないから、評価は基本無理じゃな。

とは言え、師匠の性格上数値化しないわけにはいきませんものね。

そうじゃな、まあこういう時は父に多少近い傾向とみておけば良いじゃろう。

それにしても陶謙の年齢を考えると、息子と言えど結構良い年ですよね。

そうじゃな、曹操等と同世代ぐらいじゃろうからな。陶謙は自身が色々あったから、息子たちは政治の道には進ませたくなかったのかもしれんのう。さてそんなところで陶応の紹介は終わりじゃな。

良ければ次もご覧ください。それと他の方で興味ある方がいらっしゃったら、以下の索引をご覧くださいね。 

kumajisan.hatenablog.com

  

kumajisan.hatenablog.c