さて、今回紹介するのは袁綏じゃな。
字、生没年はどちらも不明じゃな。じゃが191年当時からほどなくして亡くなったのではなかろうか。彼は張超の下で何をやっておったのか、紹介をしていくとしようかの。
さて、今回は袁綏の紹介じゃな。
彼は初めて見る名前ですね。袁紹と何らかの関係はあるのでしょうか。
どうじゃろうな、後の人物紹介で書くが出身地を見ると関係はあまりなさそうじゃがな。
彼に関する記述もあまりなさそうですね。
そうじゃな、それでは早速紹介するとしようかの。
人物紹介
さて、袁綏じゃが『献帝春秋』によると、彼は広陵の人間であった、と言うことじゃ。袁紹が汝南郡汝陽県の出身なので、微妙に距離があるんじゃよ。
かといって遠すぎるほど遠いと言う訳でもない。枝分かれした祖先の一部が広陵方面に流れ着いた可能性もあるが、関係性は正直不明じゃのう。
話を戻して『献帝春秋』によると彼は太傅掾となったとあるんじゃ、太傅は太子を補佐する役割じゃが、その下で各曹(部局)の長官となっておった、と言うことじゃな。どの曹であったか、までは不明じゃがエリート官僚の一人であった、と言うことじゃろうな。じゃが黄巾の乱や董卓の暴虐もあって、広陵に戻っておったのであろう。
そして広陵太守となっておった張超に招聘を受けた、と言う形ではないかな。
張超は反董卓連合軍に参加し、軍を率いて董卓の討伐に向かうんじゃが、この時に袁綏に広陵の統治を任せた、とあるんじゃ。
しかし彼の記録はそこで途絶え、その後の消息は不明なんじゃよ。
さて、彼がほどなくして亡くなったのではないか、と上で書いたのじゃが、その理由として彼の息子の動向があったんじゃ。
袁綏には袁迪と言う息子がおったんじゃが、彼は張紘等と揚州へ避難しておる。そして、彼には後ろ盾もなく貧しかった、と言う記述があるんじゃ。
もし袁綏が生きておれば、袁迪が後ろ盾もなく、困窮することもなかったじゃろう。そのことから恐らく200年前後ぐらいに袁綏は亡くなっていた、と考えられるんじゃ。
まあ広陵辺りは笮融による略奪虐殺等があった地じゃから、それに巻き込まれた可能性も考えられるが、詳細は不明じゃの。
と言ったところで人物紹介はここまでじゃな。続いて能力評価と行くぞい。
今回はワシ一人の評価じゃな。
能力評価
袁綏は太傅掾になったり、董卓討伐に向かう張超に後の統治を託されるほどの人物だったと言うことから、政治を高めの評価としたんじゃ。じゃが他は実績がないので抑え目の能力じゃな。全体的に文官寄りの評価となるじゃろうか。
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雑談ぢゃ
さて、袁綏の評価じゃな。
政治が高めなのは何となく分かりましたが、知謀も高めなんですね。
そうじゃな、これは子孫の話になるんじゃが、袁迪の孫にあたる人物が『献帝春秋』を著した、と言う記述があったんじゃ。
なるほど、歴史学者としての系譜の可能性があるから知謀も高めとした、と言うことですか。
うむ、ただ他の史書の記録によると『献帝春秋』を著した人物が違っておったりして、ちと正確性に欠ける情報なんじゃがな。
違った情報が複数あるとどれが正しいか、迷いますねw
そうじゃな、じゃがまあ、今となってはその記述から類推するしかないからのう。これぐらいの評価であれば、別に大きくバランスを崩すものでもないじゃろう。さて、これで袁綏の紹介はここまでじゃな。
良ければ次もご覧ください。それと他に興味ある方がいらっしゃったら、以下の索引をご覧くださいね。