三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉辟(りゅうへき) 字:不明(?~?)

さて、今回紹介する人物は劉辟じゃな。字は不明。

生没年は不明じゃが、一説には196年に黄邵と共に斬られた、と言う説もあるんじゃ。何故二つの説があるのか、見ていくとしようかのう。

 

さて、今回は劉辟じゃな。黄邵等と一緒に行動しておった人物じゃな。

そうなると記述の内容は黄邵と同じような感じになるんでしょうか。

どうじゃろうな、彼の記述にはちと真偽不明なところもあるんじゃよ

上で書いている生没年のこととかですね。 

そうじゃな、それでは順を追って見ていくとしようかの 

人物紹介

さて劉辟じゃが、何儀・黄邵と共に汝南・潁川の黄巾の賊徒だったんじゃ。

そして袁術豫州に流れ着いた頃、黄邵も何儀等と同様、袁術に味方しておった、と言う話なんじゃな。

そして196年の二月、曹操豫州方面に軍を進め、彼らを撃破するんじゃ。

この時魏志武帝紀』によると劉辟・黄邵等が斬られ、とあるんじゃな。黄邵は既に書いておるが、曹操の陣営に夜襲をかけようとするんじゃが、そこに于禁が立ち塞がり、黄邵の軍を撃破し、黄邵等を斬るんじゃ。黄邵については以下から確認できるぞい。 

 
もしこの時に劉辟も一緒に斬られたとするなら、劉辟の没年は196年となるんじゃ。じゃが『武帝紀』を続けてみていくと、孫策が暗殺された200年頃、降伏しておった汝南の劉辟が反逆して袁紹に味方し、許の近郊を荒らした、とあるんじゃ。

他にも蜀志『先主伝』のところにも、200年に汝南の劉辟が曹操に反旗を翻して袁紹に味方し、袁紹劉備に軍兵を指揮させ、劉辟等と共に許の周辺を荒らしまわらせた、とあるんじゃよ。

じゃが曹操も素早く曹仁を送り込み彼らを撃破させるんじゃな。劉備袁紹の下に逃げ帰り、劉辟の屯営は曹仁によって打ち破られるんじゃ。

結局『武帝紀』の一ヶ所だけ、劉辟が黄邵と共に斬られた、とあるんじゃな。

じゃからそこの記述が間違いで、196年斬られたのは黄邵のみ、劉辟は何儀等と共に196年の時には一旦曹操に降伏し、200年に反旗を翻した、と言うのが正解じゃと思うんじゃ。もっともその後の動静は不明じゃのう。

さて、劉辟の紹介はここまでじゃな、続けて能力評価と行くぞい。今回は天舞さん以外に出ておるようじゃのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 劉辟(20歳)  60 35 45 10
 ↓ ↓ ↓ 
 劉辟(45歳)  90 62 73 35

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劉辟の能力評価じゃが、何儀や黄邵等と大体同等ぐらいの評価じゃな。攻勢面はそこそこ強いが、攻められると脆さを見せることから軍事以外は全体的には抑え目の評価じゃな。 

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 劉辟  70 72 51 34 56

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 劉辟  15 5 4 1 15

 

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雑談ぢゃ

さて、劉辟の能力評価じゃな。ワシの評価は袁術陣営の平均的な武官と言う感じじゃな。

三国志14ですと結構能力高いですねえ。

これは劉備陣営に協力しておったこととかも、関係しているように思えるのう。

演義補正、ということですか。

そうじゃな、演義では基本劉備陣営は全体的に能力の底上げがされておる。劉辟もその恩恵を受けておる訳じゃな。

実績だけ見れば何儀等と同等ぐらいの評価のはずですが、同じ三国志14でだいぶ差がありますね。

もし劉辟が曹操に反乱した時に何儀も一緒に参加していれば、もう少し評価高かったかもしれんのう。さて劉辟の紹介はここまでじゃな。良ければ次も見てくだされ。

紹介ありがとうございました。もし他にもどなたか興味ありましたら、下から調べてみてくださいね。