さて、今回紹介する人物は張陟と言う人物じゃな。
字や生没年は不明じゃ。彼は後漢末の幷州刺史なんじゃが、実は191年当時からそうであったかははっきりしないんじゃ。
さて、今回紹介するのは張陟じゃな。
し、師匠、顔が変わってるんですが。
いや、まあ本来の姿に戻った、と言う感じじゃがの。
いらすとやさんのところの画像ですよね?ついにそちら方面に手を出したのですね?
まあ、少し変化をつけようと思ったからの、変化はこれだけではないぞ。先生どうぞ。
うーん、せっかくあの世で気楽に暮らしてたのに、また面倒くさいことしよって・・・。
し、師匠この方は・・・?
うむ、こちらはワシの一番尊敬する張車騎将軍(張郃)殿じゃ。ワシでは分らん部分を将軍に助けてもらうつもりなんじゃ。
今は将軍でもなんでもない身でもあるし、煩わしいから張郃で良いぞ。それで今は何をしようとしているのかね。
今は張陟と言う人物の紹介をしようとしているところです。
ほう、張陟殿か、俺は彼のことを直接は知らん、が混乱期の幷州で頑張っていた人物だな。そう言えば、崔林殿を推薦した人物でもあったな。
張郃さんも普通に姓名で呼ばれるんですか?
そなたたちの国でも、郷に入っては郷に従え、と言うであろう。それだけの話だ。もちろん、本人が前にいたら、そんな失礼な呼び方はしないがな。
(師匠、なんだかスゴイ常識的で、しかも話が分かる方です。)
(うむ、じゃから呼ぶことにしたんじゃ。他の五将軍はクセが強い人物も多いからのう。)
何をしている。話がいつまでも進まんではないか。人物紹介をするならさっさとやり給え。
う、うむ、それではすぐに紹介するぞい。
(師匠、タジタジですねw)
人物紹介
張陟について史書に書いてあるのは一ヶ所のみじゃな。魏志『崔林伝』のところに、曹操が壺関に遠征した時に、県の令長の内もっとも人徳のある政治を行っている人物を、当時の幷州刺史であった張陟に尋ねたんじゃ。
この時、自分は遠征に参加していなかったが、楽進殿が壺関に征伐に向かっている。相手は袁紹殿の娘婿の高幹殿。元主君筋だからではないが、彼はかなり優れた人物だったな。袁紹殿の娘婿でなければ・・・惜しい人物だったな。
張陟はこの時に崔林の名を答えるんじゃ。すぐに彼の名前が出てくるあたり、張陟は県の令長をよく見ておるのう。
まあ、それぐらいでなければ、曹操政権下で刺史など務まらんからな。ちなみに袁紹殿が生きている間、幷州は袁紹殿の支配下で高幹殿が治めておったから、正確にはこの時期張陟殿の刺史はないぞ。
確かにそうじゃが、幷州にも核となる勢力を一つ作っておきたかったから、そのための措置じゃな。
もどかしいが、記録が残っていない以上、自分の記憶に残っている刺史を語っても意味がないのも確かだな。
それでは人物紹介はここまでじゃ。能力評価は・・・ワシのみじゃな。
能力評価
張陟は刺史として勤め上げておったことや、崔林を推薦したことから文治面の能力を高めに評価しておるんじゃ。また高幹以降の混乱している幷州を統治しているため、統率もそれなりに高く評価しておるんじゃよ。
ただ目立つ実績はないため、そこまで突出して能力を高くはしておらんのじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、張陟の能力評価じゃな。張郃殿は何か言うことありますかのう。
実績がないとこんなものか。最高値は200であろう。だがそなた達の基準で作っている評価である以上、自分が言うことは何もないな。
ふむ、それではワシら主導で話を進めて行きますぞい。
他の作品には出ていないから比較もできませんね。
於夫羅の能力を比較対象として考えると、統率が高いのは利点として挙げられるから、配下次第では十分対抗できるのう。
政治と知謀も高いのですね。
崔林殿を見出しているのだから、当然だろう。ちなみに崔林殿は袁紹殿の下で同僚だった崔琰殿の従弟にあたる人物だな。当初崔林殿はあまり評価されていなかったが、その崔林殿を崔琰殿は最初から非常に高く評価していた、さすがに見る目が違う。
もう少し他の実績があれば、張陟のことももっと高い評価にしたんじゃが、張郃殿がいたとしても史書に記録が残っていない以上、評価はこの辺りで落ち着いてしまうのう、残念じゃ。さて、今回はここまでじゃな。それでも良ければ次もまた見てくだされ。
それでは俺も帰るぞ。まだどこまで口を出して良いか良く分かっていないが、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。それと他の人物を見たいときは以下の人名索引を参照してくださいね。