さて、今回紹介する人物は張楊じゃな。字は雅叔、生年は不明じゃが没年は199年じゃな。何度か出てきておる人物じゃが、彼についての紹介と行こうかのう。
どうも、くまの爺じゃよ。さて、今回紹介する人物は張楊じゃな、すでに何度か出てきておる人物じゃな。
どうも、張郃だ。張楊殿か、一時は袁紹殿と共に行動しておった人物だな。
張郃さんは直接の面識はありましたか?
いや、さすがに反董卓連合軍の頃は俺は韓馥陣営にいたから、直接張楊殿に見えたことはないな。だが彼もひとかどの人物ではあるぞ。
うむ、それではさっそく張楊の人物紹介と行こうかの。
よろしくお願いします。
人物紹介
若き日の張楊
張楊は字を雅叔と言い、雲中郡の人なんじゃ。雲中郡は幷州に属しており、雁門郡の北西に位置し、魏の時代には放棄された地域でもあるんじゃ。呂布の出身の五原郡とは隣同士なんじゃよ。
彼は武勇によって幷州で採用され、武猛従事となったんじゃ。丁度霊帝の時代に西園八校尉を設立した時に、当時の幷州刺史であった丁原は張楊に軍隊を統率させ、八校尉のトップであった蹇磧の下へ参上させたところ、臨時の司馬に任命されたんじゃよ。
若き日の張楊の評判を見ると、勇猛で軍指揮に優れた人物、と言う印象じゃのう。
後に何進によって蹇磧が処刑されると、今度は何進が張楊を用いるようになるんじゃ。彼は張楊を郷里へ派遣し、軍兵を集めさせるんじゃな。じゃが彼が千人余りを集め、上党の賊を討伐している間に何進が殺害され、董卓による統治が始まってしまうんじゃ。
反董卓連合軍への参加
張楊は配下の軍勢を率い、壺関にいる(董卓側の)上党太守を攻撃したが、攻め落とすことができんかったんじゃ。そこで諸県を攻めている間に、反董卓連合軍が旗揚げされ、張楊もこれに参加するんじゃ。
袁紹が河内まで来た時に、張楊は合流するんじゃが、この時於夫羅も一緒に駐屯するんじゃな。じゃがここで於夫羅が反逆を図り、袁紹と張楊が同調しないとなると、於夫羅は張楊をひっ捕らえて連れ去ってしまうんじゃ。
武勇に優れた、とあるが、この時は不意を突かれたのかもしれんな。張楊殿は少しワキが甘かったのかもしれん。
袁紹は麴義を派遣して於夫羅を追撃させ、打ち破るんじゃが、更に於夫羅は逃げるんじゃ。
反董卓側から董卓側へ?
そしてこの頃に董卓は張楊を建義将軍・河内太守に任命するんじゃ。こうやって考えると、この時に張楊は反董卓側から董卓側に乗り換えたのかもしれんのう。
於夫羅の反逆と言うのも、反董卓連合軍から董卓側へ乗り換えようという意味の反逆で、当初は同調しなかった張楊も、連れられている間にそれを受け入れたのかもしれんな。
献帝が河東にいた頃、張楊は兵を率いて安邑県に参上したため、安国将軍の位を授けられ、晋陽候に取り立てられたんじゃ。この頃、張楊は天子をお迎えして洛陽に帰ろうとしたが、諸将は反対し、実現しなかったんじゃ。
この時点でその視点を持てるってなかなかすごいのではなかろうか。
献帝の洛陽帰還
さて、前回で献帝の保護が叶わんかった張楊じゃが、196年に献帝が洛陽へ立ち戻ろうとした時、張楊は食料を用意して道の途中で出迎え、何とか洛陽へ帰還することができたんじゃ。
『献帝春秋』によると献帝が洛陽に到着したが、洛陽は破壊されつくしていたので、献帝は張楊に宮室を修理させ、宮殿の名を揚安殿と付け、帝は移住した、とあるんじゃ。
この後張楊は諸将に向かって以下のように言うんじゃ。
「天子は天下の人々皆のものであるはずだ。幸いにして公卿大臣がおられることだし、わしは外難の防止に当たるべきだ。どうして都のことに専念しておられようぞ。」
かくして張楊は野王県に戻り、洛陽周辺で変事が起きないよう、睨みを効かせるんじゃ。そして彼は大司馬の位に任じられるんじゃよ。
呂布との関係
呂布が袁紹陣営におった時のことじゃ、彼は黒山賊を打ち破ったことで増長し、兵員の増強を要求したり、将兵が掠奪を行ったりしたことで袁紹の恨みを買うんじゃ。最終的に袁紹は刺客を送り込むんじゃが、呂布は難を逃れ、張楊の下に合流するんじゃ。
『英雄記』によると、この時張楊とその配下の諸将は皆、李傕と郭汜から賞金付きのお尋ね者と言う通知を受け取っていたので、呂布を始末しようと共謀するんじゃ。呂布はこれを知ると張楊に
「わしは君と同郷の人間だ。君がわしを殺せば、君にとっての弱みとなる。わしを売るに越したことはない。そうすれば李傕達から爵位と恩寵を得られるだろう。」
これを聞いて張楊は表向きは李傕達の言うことを聞き入れるふりをして、内実は呂布を保護するようになったんじゃよ。
呂布が曹操に包囲された際、張楊は呂布を助けたかったができなかったんじゃ。そこで野王県東の市場に出兵し、はるかに声援を送った、と言うことじゃな。
まあ、はるか遠く、徐州の呂布に実際に声援が届くはずもないが、そうせずにはいられんかったのだろうな。
張楊の最後、彼の性格
199年春二月に張楊は配下の将、楊醜が張楊を殺害したんじゃ。楊醜はそのまま曹操の配下になろうとしたようじゃが、眭固によって楊醜は殺害され、眭固は袁紹配下になったんじゃよ。
勇猛な武将のイメージが強いが、『英雄記』によると、張楊は慈愛深く温和な性格だったようじゃ。もっとも悪人に対し刑罰を加えることとかはできんかったようじゃな。奴僕が謀反を企てて発覚した時も、彼に向って涙を流すと直ちに許して不問に付した、と言うんじゃ。この辺りは乱世を乗り切るうえではちとマイナス要素じゃな。
さて、これにて張楊の人物紹介は終わりじゃ。続けて能力評価と行くぞい。今回は天舞さん以外に出ておるようじゃ。
能力評価
張楊は最初はその武勇を買われて丁原に引き立てられ、また兵の募集や軍の統率もそつなくこなしたことから、軍事と統率は高い評価としたんじゃ。また献帝に対する勤皇精神、先見の明からも政治能力の評価も高め賭したんじゃ。
その一方、於夫羅に捕まってしまったり、お人好しであった甘さ、そして最後は暗殺に倒れたこと等のワキの甘さから知謀を抑えめとしたんじゃ。残念な話じゃのう。
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雑談ぢゃ
さて、張楊の能力評価じゃな。
劉寵殿に少し近い感じだな、ただ劉寵殿ほどの強さはない、と言う評価か。
確かに精兵ぞろいの劉寵さんには少し及ばない印象ですね。
そうじゃな、じゃがまあ丁原に取り立てられ、与えられた役割から言っても間違いなく武人として評価が高かったんじゃろうな。
それでも君主として見れば十分優秀な部類ではないか。しかも天下の中心に限りなく近い。
逆にどこに攻め込むかで迷いそうですね。
現実的には幷州へ攻め込むのが一番良いじゃろうな。あちらは境界を接しており、攻め込むのも容易じゃからな。他はどこに行っても結構いばらの道じゃな。さて、それでは今回はここまでじゃな。
それでは俺も帰るとしよう、次もよろしく頼むぞ。
張郃さん、ありがとうございます。紹介もありがとうございました。次もまたよろしくお願いします。他に気になる人物がいましたら下をご覧ください。