さて、今回紹介するのは楊醜じゃな。字や生年は不明、没年は199年じゃな。
彼に関してはすでに何度か名前が出ておるのう。早速紹介と行こうかのう。
どうも、くまの爺じゃよ。さて、今回紹介する人物は楊醜じゃな。彼も既に名前が出てきておるのう。
どうも、張郃だ。楊醜か・・・この辺りはあまり詳しい事情は知らんが、なかなかひどい状況だったようだな。
何ヶ所かで書かれていましたね。因果応報、と言う感じでしょうか。
まあ、具体的な内容は紹介の方に書くとして、こう言うのは絶対反発する人物は出るじゃろうからな。それでは紹介と行こうかのう。
よろしくお願いします。
人物紹介
さて、楊醜についての紹介じゃが、彼の出番は他の武将と同様、少ないのう。
魏志『武帝紀』によると199年、張楊を楊醜が殺害し、その楊醜を眭固が殺害し、袁紹配下となった、とあっさり書かれておる。
実はこの時、楊醜は曹操に降ろうとしておったようじゃな。じゃが考えてみると一時は張楊と曹操は共闘関係にあり、書簡のやり取りをしておった。
じゃが、恐らく曹操が許都へ移り、北から袁紹の圧が強くなると共に、曹操よりも袁紹傘下に、と考えたんじゃろうな。
じゃが恐らく楊醜はそれでも曹操に付くべき、と考えておったんじゃろう。
そう考えると興味深いな。当時一般論では、袁紹殿の方が圧倒的に優勢で、曹操陣営からも袁紹殿に密書を送って寝返りを約す人物は多かった。そんな中で曹丞相殿に寝返ろうとしていた楊醜、彼には何が見えていたんだろう。
確かにここでの楊醜の動きは少し不可解じゃのう。もしくは元々曹操と何らかの繋がりがあるとかかもしれんのう。
何にしてもなかなかできる選択ではないな。
さて、そうやって張楊を殺害してその軍勢を率いて曹操に降ろうとした楊醜じゃが、今度は彼が眭固に殺害され、眭固は結局袁尚に降ると言う元の鞘に納まった感じじゃな。
ちなみに「醜」じゃが、この言葉には強く恐ろしい、と言う意味もあるんじゃな。そう考えると武芸自慢の武官タイプだったのではなかろうか。
さて、楊醜の紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回はワシ以外に三国志14にも出ておるな。
能力評価
楊醜は張楊を斬った、と言うことと名前の「醜」の文字の意味から武勇に優れた人物、と判断し、軍事を高めとしたんじゃ。しかし配下をまとめきれず、眭固に殺害されたことから統率は抑え目じゃな。
また曹操の将来性を見抜いていた、かもしれないと言うことから、知謀も多少高めじゃな。と言ってもかもしれない、程度なのでそこまで高くはできんかったがのう。
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雑談ぢゃ
さて、楊醜についての能力評価じゃな。
ふむ、やはり武勇面を買って、軍事の高評価だな。知謀もまあ納得のいくところか。
眭固に殺害されるところを見ると、案外お人好しだったのかもしれんのう。
能力的には繆尚と組ませるとお互いの足りない部分を補完できそうですね。
確かに凸凹がちょうどかみ合っているな。そう言えば三国志14の方は知謀より統率の方が高いのだな。
そうじゃな、この辺りは実績がないことから多少アバウトに決めるしかないからのう。さて、今回はそんなとこじゃな。次はまた新しい勢力じゃ、よろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとしよう。次もよろしく頼むぞ。
張郃さん、お疲れ様です。次もよろしくお願いしますね。それと他の人物を見たいときは以下の人名索引を参照してくださいね。