さて、今回紹介する人物は白波じゃ。字や生没年は不明。
実は史書を見ても彼の事跡は詳しいことは伝わっておらんのじゃ。じゃがあるジャンルにおいて彼の名前は日本にまで残っておるんじゃよ。
どうも、くまの爺じゃよ。さて、今回紹介する人物は白波じゃな。
どうも、張郃だ。白波か、上で妙な書き方をしているが弟子よ、お主はこれがどのように日本に伝わっているか知っておるか?
いえ、実はあまり詳しいことは知らないのです。
ふむ、結構有名なのかと思ったが、そうでもないと言うことか。
知ってる人は非常によく知っている、と言う感じじゃからのう。最近の若い人はあまり知らんかもしれんのじゃ。
それではその辺りの説明をお願いします。
うむ、それでは早速見ていくとしようかの。
人物紹介
さて、白波じゃが、彼自身の記述はわずかじゃが、白波と言う言葉自体はあちこちに出てくるんじゃよ。
白波自身の登場は魏志『張燕伝』の注釈、『九州春秋』に、184年に張角が反乱を起こした時に、共に兵を挙げた人物の紹介があって、その中に白波の名前もあった、と言うのみじゃな。
白波賊となると、まず武帝紀注『魏書』によると、於夫羅は漢に援軍として来ていたんじゃが、匈奴本国で反乱が起きてしまい、於夫羅は本国に戻れなくなったんじゃ。彼は西河の白波賊と合流し、太原・河内を破り、諸軍を荒らしまわって乱暴を働いた、とあるのが一つじゃな。
異民族は強力な指導者がいると一つにまとまり、非常に厄介だが、そうでないとすぐに分裂・内乱を起こす。於夫羅には厳しいが、もう少し器量が必要だったのかもしれないな。
続いて『董卓伝』じゃが、後半に董卓が亡くなり、李傕と郭汜が権力を握った辺りじゃ。両者当初は協力していたのじゃが、やがて考えの行き違いから互いに争うようになったんじゃよ。
そこで献帝が二人を和睦させようと皇甫酈を派遣した時に、郭汜はそれを受け入れたんじゃが、李傕はこれを受けようとしない。皇甫酈は皇帝の意に従わない李傕の非を挙げ「今のままでは西方の実力者の張済や、(白波賊の指揮官の)楊奉も将軍のために力の限り働くことはありませんでしょう。」と説得するが、李傕は怒鳴りつけて退出させた、とある。
なるほど、楊奉は元々白波の指揮官であったのだな。さすがにまだこの頃、徐晃殿は出てこないのかな。
そうじゃな、彼の名前が出てくるのは楊奉が曹操と関わってくるあたりからじゃからのう。
最後に魏志『管寧伝』の注『魏略』によると、焦先と言う河東の人がいたんじゃ。彼が20余歳であった中平年間(184年~189年)、白波の賊が起こり、彼はこれを避けて東方に行き、揚州に客居した、とあるんじゃな。
このように、もしかしたら白波自身は比較的早い段階で亡くなっていた可能性もあるかのう。
さて、続いて白波について、日本との関わりじゃな。何そんなにたいしたことではないんじゃ。
さて、白波の出番はここまでじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回はワシの評価のみじゃな。こういう人物こそ出てきてほしい気もするのう。
能力評価
白波は黄巾賊と共に立った、と言うこと以外の記述がほとんどないので、全体的に抑え目の評価なんじゃ。じゃが白波賊の頭領であったことから、統率を一番高めとしたんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、白波の能力評価じゃな。
河東方面の頭領と言うことで、彼もまた統率の高い人物として評価しておるのだな。
そうじゃな、一方面の大将、として他とは少し違う評価としたんじゃ。
しらなみもの、ですか、そう言われると名前だけはちょっと聞いたような気がします。
まあ、191年頃は亡くなっているかもしれんがのう。
しかし、ここで白波が出てくると言うことは、本当にもう後わずかなのだな。
そうじゃな、後は韓暹や楊奉等、比較的見知った人物が多いかのう。お盆前には終わらせられるかのう。さて、今回はここまでじゃな、次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとしよう。次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れ様です。次もよろしくお願いしますね。それと他の人物を見たいときは以下の人名索引を参照してくださいね。