三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

李傕(りかく) 字:稚然(?~197)その1

さて、いよいよ董卓配下の大物の一人、今回は李傕の紹介じゃな。字は稚然。生年は不明じゃが、没年は197年じゃな。結果として彼らの存在が後漢の混迷に拍車をかけた、とは言えるじゃろうな。

 

さて、今回紹介する人物は李傕じゃな。袁術と並ぶ後漢トリックスターの一人じゃな。

どうも、張郃だ。とは言えこいつ等は強いぞ。遊戯で設定されておる李傕を想像していると、間違いなく痛い目を見るであろうな。  

張郃さんが、そう言うってことは、なかなか侮れなさそうですね。

そうじゃな、実力的にはなかなかのものがあると言えるじゃろうな。 

ふむ、まあそうは言っても穴は色々多い。やりようはあるがな。 

そうじゃな、結局彼らの凋落も軍事とは別の方面から、じゃからな。

それにしても久々の大物ですから、今回はちょっと長くなるのでしょうか?

そうじゃな。久々に複数回にわたっての紹介になりそうじゃ、それでは早速行くぞい

分かりました、よろしくお願いします。

人物紹介

危機的状況の李傕

さて、それでは李傕について見ていこうかの。

董卓伝』を見ると、李傕等は牛輔配下で関東諸軍と戦っていたが、校尉として陳留や潁川を攻略しておったんじゃ。

じゃが、董卓呂布によって殺害され、状況を把握した李傕等が牛輔の下へ帰還したんじゃが、帰還した時には既に牛輔は斬られた後であったんじゃ。

兵士たちは落ち着く場所を失い、各自離散して故郷へ帰ることを希望したが、赦免状は出ない上、長安では涼州人を全員処刑しているとの噂が流れ、心配と恐怖でなすすべを知らなかったんじゃ。 

結果として牛輔は死に、前線の部隊は瓦解寸前であったのは確かじゃ。李傕達にとって絶体絶命のピンチじゃな。じゃがここから逆転劇が起こるんじゃよ。 

陳平と並び称される賈詡

さて、軍団崩壊の危機じゃが、この窮地を救ったのが、あの賈詡じゃな。

うろたえる李傕達に賈詡は以下のように言ったんじゃ。

「聞けば長安では涼州人を皆殺しにしようと議論しているよし。それなのにあなた方は兵隊達を捨てて、単独で行かれる。それでは亭長一人であなた方を捕えることができますぞ。軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍勢を集め、それで長安を攻撃し、董公の復讐をする方が良いでしょう。幸いにしてうまく事が運んだ場合には天子様を奉じて天下を征伐すれば良し、もしうまく運ばなかった場合にはそこから逃走しても遅くはないでしょう。」

恐ろしく冷静で、己たちの危機的状況、そしてその対策を示した意見と言えるだろう。己の身に危機が迫っている中、これだけ冷静、いや冷徹な判断が下せる人物はそう多くはいまい。  

李傕等は賈詡の献策を採用して、その軍勢を率いて西へ向かったんじゃ。行く先々で兵士を狩り集め、長安に到着する頃には軍勢は10万以上になっていたんじゃ。更に李傕等は元董卓配下であった樊稠、李蒙、王方等と合流して長安を包囲し、10日で城は陥落したんじゃよ。

長安の人達にとっては生きた心地がしない状況であろうな。戦乱の世とは言え、残酷なことだ。 

長安占拠

この時、李傕と郭汜は呂布と城中で会戦し、呂布は敗走して東に向かったんじゃな。李傕等は兵を放って、長安の人々を老若問わずひっ捕らえ、全員殺戮し、死体が辺りに散乱したんじゃよ。董卓を殺した者を処刑し、王允の屍を市場にさらしたんじゃ。

この時の詳細な記録は張璠の『漢紀』に載っておるんじゃ。

『漢紀』によると、李傕と郭汜は多数の官吏と民衆を殺害したんじゃ。王允は天子を抱え、戦闘を避けて宣平門に登ったんじゃ。

にっくき敵(王允)を目の前にして、しかし献帝を抱えた王允も、当然献帝にも手を出すことはできん。

手が出せないのは彼等にとって耐えがたい屈辱であったろうな。

それでも手が出せない以上、彼らがやれることはただ一つ、門の下にぬかずき、地面にひれ伏して叩頭したんじゃ。

献帝は李傕等を詰問するんじゃ。

「君たちは刑罰、恩賞の権を(勝手に)ふるってはならぬはずだ。それを兵を放って勝手な真似をするとは、どういうつもりだ。」

恐らく抱えていた王允の入れ知恵で、これ以上の殺戮を、そして王允も自身の命を救うために献帝に言わせたのじゃろうな。

じゃが、李傕達はこれをうまく切り返すんじゃ。

董卓は陛下に忠誠でありましたのに、ゆえもなく呂布らに殺害されました。私どもは董卓のために復讐しただけで、謀反を起こしたのではございません。事が終わりましたなら、廷尉の下に出頭して処罰を受ける所存です。」

乱暴ではあるが、殺害された君主に対する忠義を示したことで、彼らを罰することが簡単にできなくなってしまったんじゃ

逆にこれによって王允は追い詰められた・・・と言えるかのう。   

進退窮まった王允は、結局表へ出て李傕に会ったんじゃが、当然許されるはずもなく、王允を始めとしてその妻子一族10人余りは殺害されることとなったんじゃな。王允も官僚としては有能だったんじゃろうが、諸々の対処で失敗してしまったと言えるじゃろう。日本で言うと明智光秀の失敗に、ちと近いかもしれんの。

ちなみに後に魏の重鎮となる王淩がこの時まだ年若いながらも、自ら血路を開き長安からの脱出に成功しておるのだ。王淩は王允の一族であったから、結構危険な状況だったのだろうな。

さてこの後、李傕は車騎将軍・池陽侯となり、司隷校尉の官を担当し、節も与えられたんじゃ。これは後将軍になった郭汜や、右将軍の樊稠よりも少し格が高かったのではなかろうか。

唯一、驃騎将軍となった張済は将軍位としては李傕と同等以上であったが、彼は長安にはとどまらず、弘農に駐屯することとなった。実質的に一番権力を握ったのは李傕だったと言えるかもしれんのう。

さて、この頃が李傕の絶頂期じゃな。じゃがここから衰退がはじまっていく。まあそれは次回以降に語るとしようかのう。それでは今回はここまでじゃ。

 

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次もまたよろしく頼むぞい。