三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

賈詡(かく) 字:文和(147~223)その1

さて、今回紹介するのは賈詡、字は文和じゃ。知っている方も多いと思うが、曹操を一度死地に追い込んだことのある、時代を代表する智者じゃな。223年に77歳で亡くなった曹操より少し年上なんじゃな。

 

さて、今回紹介する人物は賈詡じゃな。恐らく後漢から三国時代にかけて本物の軍師と言える人物じゃろう。

どうも、張郃だ。確かに今の人達が考える軍師と言う役割をよく果たしているが、賈詡殿の場合、それだけではないからな。  

軍師以外の仕事もやっていた、と言うことですか。

そうじゃな、どちらかと言うと魏では政治顧問的な役割を担ったりしておったからのう。 

まあ軍を率いることもできたし何でもできるお方よ。日本の戦国時代に多くいる宰相のような人物とも言えるかもしれんな。 

彼の読みの深さはなかなか並ぶ者がいないと言えるが、彼の場合はそれだけではないようじゃな。

うーん、知っているようで知らないことが結構ありそうですね。

まあ今回も2回は分かれると思うからのう、早速行くぞい

分かりました、よろしくお願いします。

人物紹介

若き日の賈詡

賈詡は字を文和と言って、武威郡姑臧県の人なんじゃ。若い時は彼を認める人はいなかったんじゃが、漢陽の閻忠だけは彼を高く評価し、賈詡には張良や陳平のような機略がある、と言っておったんじゃ。

閻忠のことを知っておる人はあまり多くはないと思うが、彼もまた乱世において優れた才知と野心を持ち合わせておった人物なんじゃよ。 

さて、賈詡の知略をいくつか見ていくとしようかのう。

段熲の外孫?の賈詡

若い頃孝廉に選ばれ郎になったが、病気で役人をやめ、西方への帰途、汧までくると氐族の叛民と出くわし、同行の数十人は全て捕えられたんじゃ。賈詡

「わしは段公の外孫である。お前たちはわしを殺した後、他の者達とは別に埋葬せよ。わしの家の者は必ず十分に礼をして引き取るだろう。」

と言ったんじゃ。

当時段熲は大尉で、以前長期に渡って国境指揮官を務めたことがあり、その権威が西方に鳴り響いておったんじゃよ。

だから賈詡は段熲の名前を借りて、氐族を脅したんじゃ。段公(段熲)の外孫と言うのはもちろんブラフじゃな。

平然とはったりを言えるあたり、単に先を見通す力を持っていただけでなく、己の言葉に説得力を持たせ、相手を動かすことのできる人物だったのだ、賈文和殿は。  

氐族は予想通り危害を加えようとはせず、盟約を結んで彼を送り出したが、その他の者は皆殺されてしまったんじゃ。

裴松之の若造はこう言う部分を嫌っているのかもしれんな。しかし全員を救うことが簡単にできるなら、誰も苦労はしない。賈詡自身ですら生死ギリギリの状況だったのだ。苦労知らずの裴松之はその辺りが見えておらんから、理想論だけで物事を判断しようとするのだろう。 

董卓の敵討ち?

董卓が洛陽に入城した後、賈詡は牛輔の軍中にいたんじゃ。董卓が死亡し、牛輔も軍中の混乱の中で死んでしまったので、兵達は恐れおののき、校尉の李傕、郭汜、張済らは軍勢を解散し、間道伝いに郷里に帰りたいと考えたんじゃ。

それに対し、賈詡は次のように言うんじゃ。

「聞けば、長安では涼州人を皆殺しにしようと議論しているよし。それなのに、あなたがたは兵達を捨てて単独で行かれる。それでは亭長一人で、あなた方を捕えることができますぞ。

軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、それで長安を攻撃して、董公の復讐をする方が良いでしょう。幸いにしてうまく事が運んだ場合には、天子様を奉じて天下を征伐すれば良し、もしうまく運ばなかった場合には、それから逃走しても遅くはないでしょう。」

この賈詡の知略によって長安後略は成功するんじゃ。まあ裴松之はこの辺り相当気に入らんようじゃがな。

長安での戦後処理

長安後略に成功した李傕等はこの功績によって彼を候に封じようとしたが、賈詡

「あれは生命を救うための計略でした。どこに功績がありましょう。」

と固辞して受けなかったんじゃ。

 

基本、この辺りが賈詡の本質じゃろうな。西涼と言う荒っぽい地域の生まれのためか、常に生き延びるために知恵を絞らんとイカンかったのじゃろう。じゃからと言って漢室を蔑ろにしている訳ではないのは、その後の話を見ていくと分かるんじゃ。   

更に賈詡尚書僕射に任じようとしたが

尚書僕射は諸官を取りしきる首長であり、天下の人々が期待をかける官です。私は元々人を抑える名声はありませんから、人々を心服させることにはなりません。

たとえ私が名誉と利益に盲目であったとしましても、国家をどうしたら良いのかは考えます。」

そこで賈詡は改めて尚書に任命され、官吏の選抜登用を司り、多くの点で政治を匡正した、とあるんじゃ。

賈詡の諌言の数々

献帝紀』によると、郭汜、李傕、樊稠は互いに対立し、しばしば戦闘を交えようとしたんじゃ。賈詡はそのたびに道理にもとるとして、彼らを咎め戦闘に及ぶのを食い止めておったんじゃ。

李傕等はこの賈文和殿の知略と政治に対する真摯な姿勢を高く評価しながらも、煙たがったようだな。

一時母の喪に服するため、官を辞していたんじゃが、李傕と郭汜が争いだした頃にまた復帰していたようじゃな。

献帝紀』によると李傕は賈詡に自分の陣中に天子を迎え入れることを相談したんじゃ。賈詡

「いけません。天子を脅迫するのは正義に外れています。」

と言ったが、李傕は聞き入れなかったんじゃ。張繍賈詡に向かって

「ここに長くいるべきではない。君は何故立ち去らないのだ。」

と言うと賈詡

「私は国家からご恩を受けており、信義から言って背くわけにはまいりません。あなたはお行きなさい。私は行けません。」

と断るんじゃ。

ただ保身に走るだけの人物ならここで逃げ出すだろう。裴松之とか言う若造は嫌悪のためか、ひたすら賈文和殿の人柄を貶めているが、個人的感情に身を任せすぎて、本質を見誤っていると言えるだろう。 

確かに、上に出てるだけでも『献帝紀』の注釈を多数拾い上げているのに、裴松之賈詡評にはちと首をかしげるところがありますな。 

賈詡の影の活躍 

さて『献帝紀』にはまだ続きがあり、李傕は当時数千人の羌族を召し寄せていたんじゃが、彼らは連日李傕が口約束して褒賞をいつもらえるのか、と騒いでおったんじゃ。献帝はこれに頭を悩ませ、賈詡に相談するんじゃ。

賈詡は密かに羌族の大将を呼び集めてごちそうし、爵位と宝物を与えることを承知したんじゃよ。その処置に満足した彼らは皆引き上げていった、と言うことじゃ。そして羌族の兵を失った李傕は衰退していくんじゃよ。

献帝長安を脱出するにあたって、賈文和殿の尽力が結構あった、と記述があるが、上記のようなことをこまめにやっておったのだろうな。  

更に献帝長安から脱出し、東へ向かった時のことじゃ。李傕達がこれを追撃し、大勝利をおさめ、多くの公卿等が捕まえられるんじゃ。その中でも司徒の趙温、太常の王偉、衛尉の周忠、司隷校尉の栄邵らは皆李傕に嫌われていたため、李傕は彼等を殺害しようとしておったんじゃ。賈詡はこれを押し止めるんじゃ、

「彼らは皆天子の大臣です。あなたは何を理由に彼らを殺害しようとなさるのか。」

賈詡の尽力によってやっと李傕は思いとどまった、とあるんじゃ。

さて、賈詡殿の人物紹介、長安狂騒編まで終わったかのう。まだ半分・・・ぐらいかのう。次も良ければご覧くだされ。 

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