さて、今回紹介するのは王允じゃな。字は子師、生年は137年、没年は192年。曹操達より世代が一つ上、と言う感じじゃの。後漢の司徒として董卓を殺害し、そして李傕達に殺害された悲劇の宰相じゃな。
さて、今回紹介する人物は王允じゃな。
あら、董卓陣営の紹介で、まだ董卓の紹介じゃないのですね。そう言えば昨日はアップできなかったんですね?
う、うむ、昨日テキスト整理してさあ入力と思ったら、はてなのメンテナンスに突入しておって、なんもできんかったんじゃよ。さて、董卓陣営は大きく分けて弘農の前線駐屯軍、長安にて献帝と共に政治を司っておった三公、そして董卓が大量の食糧と金銀財宝をため込んで引きこもった郿の三か所に分かれる訳じゃな。
なるほど、今回は司徒王允殿を代表とした長安の政治家たち及び彼等と協力関係にある人物を紹介する、と言うことだな。
そうじゃ、献帝がおることから董卓配下のように見えるが、心情的には董卓に屈していない面々と言えるかのう。
そうなると主に政治家、文官系の人々が並ぶと言うことですか。
いや、そうとも言えんぞい。そもそもあまり世に知られてはおらんが王允自身も文武両道じゃからな。
そう言えば董卓の下で策を巡らしていた王允さんしか知らないですね、私。
うむ、多くの人はそんなもんじゃろう。それでは王允の紹介と行こうかの。今回は量が多くなりそうなので、2回ぐらいに分けるとしようかの。
人物紹介
若き日の王允
宮城谷氏の『三国志名臣列伝』によると、王允は代々太原郡の高級官吏であったんじゃ。当然王允も19歳の若さで郡吏に登用されるんじゃ。じゃがこのままであれば郡吏として埋もれていくだけの人生じゃったろう。
そのタイミングで王允はある人物と出会うんじゃな。郭泰(字は林崇)と言う人物で、彼も太原の出身であった人物じゃが、彼は洛陽に遊学している時に李膺に非常に高く評価された人物だったんじゃ。
李膺は幼い孔融と出会って、彼の才能を評価した人物じゃな。詳細は孔融のところを見ると良いぞい。
さて、郭泰も李膺同様に人物鑑定の名人だったんじゃが、その郭泰が王允に会った際、王允のことを「王允は一日に千里を走り、王佐の才である」と評価したんじゃよ。
こうして王允は名声を博したんじゃが、更に彼の名声を挙げる出来事が起こるんじゃ。
どこの郡県内にも凶悪な人物がいるんじゃが、王允のいる太原郡も同様で、趙津と言う凶悪な有力者がいるんじゃ。しかし彼を王允は手早く捕縛し、処刑することに成功するんじゃ。これにより王允の名声はさらに高まることになる。
じゃが収まらないのは趙津の兄弟じゃ。彼らは中央の宦官に賄賂を送り、王允への復讐を狙うんじゃ。宦官は当時の皇帝の桓帝へ訴え、事実を捻じ曲げて報告したことから、王允の上司であった劉シツ(王ヘンに質)に咎が及び、劉シツは投獄され、獄死してしまうんじゃ。
すると王允は彼の遺骸を引き取り、彼の故郷の平原まで持ち帰り、自身の親が亡くなった場合と同じ3年間の喪に服するんじゃよ。
これはなかなか珍しいことだな、自身の親ならともかく、上司に対してここまでできる人はなかなかいないであろう。
喪が明け、故郷に戻る
さて、喪が明けて故郷に戻り復職すると、新しい太守の王球が能力も名声もない人物を登用していたんじゃ。そこでこれを諫めると王球は怒り、王允を投獄してしまうんじゃよ。
王允殿もトラブルに見舞われやすい人物であるな、性分の問題もあるであろうが。
このままいけば処刑待ったなし、な状態であったんじゃが、ここで意外なところから横やりが入ってくるんじゃ。この時の幷州刺史である鄧盛は王允の名声と実績を知っており、その才能が失われることを恐れ、彼を獄から出すよう王球に指示したんじゃ。
さすがの王球も刺史からの指示とあれば、断るわけにはいかん。そうして彼を釈放すると、鄧盛は彼を招聘して、自身の配下別駕従事にした、とあるんじゃよ。
これらのことにより王允の名声は高まり、ついには中央の三公の府はそれぞれ王允を辟召するまでになったんじゃ。
黄巾の乱にて
さて、そんな王允じゃが彼は文事だけでなく武事もこなすことができたんじゃ。黄巾の乱が勃発した時、彼は豫洲刺史となり現地に赴いて、荀爽や孔融(孔融は赴いていない可能性が高いが)を招聘し、州兵を統率して黄巾賊の別動隊と戦い、彼らを大破しているんじゃよ。
じゃがこの時に王允はまた火種を掴んでしまうんじゃ。
この時に王允は宦官の張譲が黄巾賊と繋がっていた証拠を握ってしまうんじゃ。
正義感の強い王允は当然告訴し、霊帝もこの事実を知ると激怒し張譲に難詰するんじゃ。じゃがそこは老獪な張譲、自身は知らなかったこと(配下が勝手にやっていた)と言い、うまく謝罪をしてこの責めを躱すんじゃ。
当然張譲はこの告訴に怒り、王允は張譲にはめられる形で獄に繋がれてしまうんじゃよ。じゃが大赦によってまたしても王允の命は救われてしまう。
じゃが王允の不幸はまだ続くんじゃ。
何進の辟召
さて、何とか大赦により自由の身となった王允であるが、未だ張譲が健在である以上、迂闊なことはできない。
しばらく逃避行を続けていたと思われるが、やがて転機が訪れる。霊帝の崩御じゃ。
これに伴い、何進の妹の何太后の子の劉弁が天子となり、何進が外戚として力を振るうようになったんじゃ。これにはおいそれと張譲も手を出すことができん。
何進殿は皇帝の叔父になる訳だから、張譲らも霊帝のように皇帝を操り人形にするのは容易ではない。宦官に対抗できる勢力がやっとできた、と言う感じだな。
そしてそのタイミングで何進は王允を辟召するんじゃな。王允も事情を分かっているから彼の招聘に応じる。何進は王允を河南尹に任じ、実際に劉弁が即位すると尚書令に任じられるんじゃよ。
その後、何進は宦官の蹇磧(彼は劉協派だった)を獄死させるんじゃ。しかし何太后はそもそも他の宦官の協力で皇后になれた立場もあり、何進に対しても妥協するよう求めるんじゃ。
その一方で袁紹達は宦官誅滅を狙って各地の群雄を呼び寄せようとしておる。
一触即発の状況で最悪の出来事、何進の暗殺が起きてしまうんじゃな。
こうやって見ると本当に浮き沈みの激しい人生じゃな。劉シツに続いて上司を宦官によって失うのは二人目じゃな。じゃが真の不幸はここから始まるんじゃよ。
必ずと言っていいぐらい壁にぶち当たる王允殿だが、どこからか救いの手が伸びてくる。ここまで来ると、王佐の才と評した郭泰の言葉が、言霊のように王允殿を守っているようにも感じるな。
確かにこれだけ上下動の激しい人生を送った人物も相違ないのではなかろうか。そしていよいよ三公になった董卓の時代を迎えるようになる訳じゃな。とは言え結構な文字数になったから、後半は次回じゃな。次もよろしく頼みますぞい。
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