さて、王允の紹介2回目じゃな。いよいよ王允の後半、董卓の下での活動を見ていこうかのう。それと一回目の最後じゃが、何進殿に辟召された話を追加したぞい。ちと2回目の分量が多くなりそうだったので移したんじゃ。
さて、今回は王允の紹介、2回目じゃな。
前回の内容はほとんど知らなかったですね。今回は良く知っている内容になるのですね?
そうじゃが、それ以外の話、実はあの最後の方のエピソードにも異説があるんじゃ。その辺り、見比べてみるとしようかの。
どうも、張郃だ。なるほど、まあ最後のあの一連の流れには違和感もあるからな。
うむ、それでは早速見ていくとしようかのう。
よろしくお願いします。
人物紹介
董卓の下にて三公へ
袁紹や袁術らが宮中の宦官を一掃している間、劉弁と劉協は最悪の人物の手に落ちてしまう。言うまでもなく董卓のことじゃな。
ここで皇帝が董卓の手に落ちてしまう辺りが、後漢王朝の衰運を示していると言えるのではなかろうか。それにしても王允殿の苦労はまだまだ続く、と言うことだな。
さて、董卓が権力を握った状況下で、自分に対して反乱を起こした袁紹の一族であった袁隗や袁基を殺害し、宮中の袁一族を駆逐する等の暴虐ぶりを示したが、恐らくそう言うしがらみがなくまた辺境出身者、と言う親近感もあったのではなかろうか、王允は重宝されて三公の一つである司徒に任じられるんじゃ。
ここに至ってついに郭泰殿の言う通り、王佐の才を発揮する立場になった、と言うことだな。この時彼が援けるべき対象はもちろん董卓ではなく、献帝のことであろうな。
董卓暗殺の謀略
さて、援けるべき対象が定まった以上、王允にとって董卓は排除すべき対象となる。それを除いても董卓のやっていることは道義的に許せるものではない。
こうして密かに王允は尚書僕射の子孫瑞と董卓暗殺の密計を巡らすんじゃ。
更に王允は呂布が自分と同郷で武勇に優れた人物であるため、丁重に扱っておったんじゃ。後に呂布は王允を訪問し、董卓に危うく殺されかけたありさまを話したんじゃ。
これを機と判断した王允は呂布に董卓暗殺の計画を打ち明け、内応させようとしたんじゃよ。
呂布は「私と董卓は何と言っても親子の間柄だから。」と言うと、王允は「あなたの苗字は呂であり、元々董卓と血縁関係はありません。今はご自身の生命の心配で精一杯、父子などと言っておられますか」と説得するんじゃ。それにより呂布はこの計画への加担を承知するんじゃ。
そして192年四月、司徒の王允、尚書僕射の士孫瑞、董卓の将の呂布が共謀して董卓を殺害したんじゃ。
この時、献帝が病気が快癒したところで、未央殿に多数の臣下を集めたんじゃ。このタイミングを利用した、と言うことじゃな。
暗転、そして・・・
じゃがこの直後から王允の運命は徐々に暗転していくんじゃよ。まず、謝承の『後漢書』によると、蔡邕は王允の座に列していたが、董卓の死を聞くと嘆き惜しんで声を発したんじゃ。王允は蔡邕を責め、
「董卓は国家の大逆賊、主君を殺して臣下を虐殺し、天地も助けず、神も人もともに憎むものである。君は朝臣として、代々漢朝の恩誼を被りながら、国主が危難に会った時も、全く戈を逆に向け(董卓を討伐し)ようとせず、董卓が天誅を受けるとかえって悼み嘆くのか。」
と言い、直ちに逮捕させるんじゃ。蔡邕は王允に謝って
「不忠とは言え、やはり大義はわきまえております。歴史における存亡安危の実例については耳にたこがでほど聞いており、口が酸っぱくなるほど申してもおります。どうして国家に背いて董卓に加担するはずがありましょうか。
でたらめで無知な言葉が間違って口を突いて出、お耳を汚したのです。どうか黥首の刑(額に入れ墨する刑罰)を受けまして、漢の後を書き継がせていただきたい。」
と言ったんじゃ。公卿たちも蔡邕の才を惜しみ、皆で王允を諫めるんじゃ。
じゃが王允はこれをはねつけてしまう。
「昔、前漢の武帝は司馬遷を殺さなかったために、誹謗の書(史記)を作らせ、後世に伝えさせることになった。
現在国運は中途で衰退し、都の郊外で戦闘が行われている。幼い天子の側近くで佞臣に史筆をとらせたならば、後々我々みんなが誹謗を被ることになるだろう。」
今に残る有名な話で、これにより王允の評判を落とすのだが、何故ここまで頑なな態度をとるのか理解できん、と言うか異説があるだろう。
そうじゃな、異説の方を見てもらうとしようかのう。
張璠の『漢紀』によると、董卓は蔡邕を侍中に任命、長安では左中郎将に任命したんじゃ。董卓は蔡邕を高く評価して厚遇し、朝廷の宣布事項がある時はいつも蔡邕に草稿を整えさせたんじゃ。
恐らくこのことから董卓の一党と感じた王允は蔡陽を処刑しようとした時、当時の名士の多くが彼のために弁護した、とあるんじゃ。王允はそのことから処刑を中止しようとしたが、蔡邕は既に処刑された後であった、と言うことじゃな。
こちらの方がまだ受け入れられる。しかしあまりにも先の説がまかり通っているのが王允殿には不幸な話であるな。
さよう、わざわざ暗殺の首謀者である王允の前で嘆くとは幾らなんでも間抜けすぎるし、王允が頑なに拒む、と言うのも理解できん。何より史記に対して王允があのような感想を持つとも思えんからのう。
さて、こうして董卓の排除に成功した王允であるが、彼の運命もそこまでであった。王允は李傕等によって長安を攻め落とされ、殺害されてしまうんじゃ。詳細を書いていくとまたえらい文量になるので、李傕の紹介を参照してくだされい。
さて、これにて王允の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価に行くぞい。今回は全作品に出ておるぞい。
能力評価
王允最大の功は董卓殺害じゃろうな、そのために謀議を重ね、呂布を味方に引き入れ、と言うことから知謀を一番高く評価したんじゃ。
また司令官もそつなくこなし、黄巾賊を大破していることから統率も高めじゃな。じゃが李傕達への対応を誤ったことで結局身を滅ぼしてしまった。このためわずかじゃが政治は抑え目の評価としたんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、王允の能力評価じゃな。
ふむ、お主だけ知謀が高く、他は政治が高いのだな。
後、師匠以外は全て軍事面は評価が低いですね。
まあ前半生はほぼ語られることはないからのう。軍事面の評価が低いのは仕方なかろう。
政治と知謀が逆なのも、なかなか興味深いな。董卓暗殺を政略とみるか策略とみるかで評価が分かれる、と言うことだな。
そうじゃな、ただ、その後の李傕達への対応のまずさを見たことで、ワシはちと政治をマイナス評価としたんじゃな。さて、これにて王允の紹介は終わりじゃ。最後まで波乱万丈な人生じゃったと言えよう。なかなか興味深い人物じゃと思うが如何かな。面白かったと思えば、次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。