三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

王淩(おうりょう) 字:彦雲(172~251)その1

さて、今回紹介する人物は王淩じゃな。字は彦雲、生年は172年、没年は251年じゃ。終わりを良くしていないことからか、あまり興味を持たない人物かもしれんが、王允殿の血族と言うだけで波乱の人生は約束?されたようなもので、非常に興味深いと言え得よう。

 

さて、今回紹介する人物は王淩じゃな。

どうも、張郃だ。今回は王淩殿か・・・。 

あら、張郃さん、微妙に歯切れが悪いですね。何か彼に対して含むところがあるのですか?

いや、おそらく王淩殿に対してではなく、張郃殿が考えていたのは司馬懿殿じゃろう。 

そうだな、曹爽殿と仲達の政争により魏の天下が斜陽を迎えるようになり、そこで王淩殿の曹彪殿担ぎ上げの失敗により、完全に曹魏の崩壊が始まった。仲達のことも知っているだけに、こうなったことに対して感情の整理が追い付かんのだ。 

確かにこの辺りから魏国内は司馬一族と曹一族および互いのシンパとの争いに突入していきますからのう。

そんな状況でも呉蜀に付け入るスキを与えないと言うのも凄いですけどね。

それだけ国力的には圧倒していた、と言うことじゃろうからな。さて、そろそろ王淩の紹介に行こうかの。今回も二回ぐらいに分かれそうじゃ。

分かりました、よろしくお願いします。

人物紹介

長安脱出劇

王淩は字を彦雲と言い、太原郡祁県の人なんじゃ。叔父の王允は先に紹介した通り、後漢の司徒となり、董卓を誅殺した人物じゃな。

と言った前振りから、いきなり長安脱出劇のところから始めようかのう。

董卓を首尾よく殺害した王允じゃが、李傕と郭汜等に長安を攻められ、王允は殺害され、彼の一家は皆殺しになるんじゃ。この時王淩と兄の王晨は当時共に年若かったんじゃが、自ら血路を開き、城壁を乗り越えて脱出することに成功し、郷里に逃げ帰るんじゃ。

曹操殿も自ら剣を振るい、反乱した兵士10数人を斬ったことがあるが、この時期は皆ある程度の武技が求められた時代だからな。それにしても見事な二人だ。

兄の王晨の消息はその後不明となるんじゃが、王淩は後に孝廉に推挙され、発干の県長に任命されるんじゃ。

曹操との邂逅

さて、県長になった王淩じゃが、この時に事件が起きたようじゃな。

『魏略』によると、ある事件に引っかかって髠刑(髪をそり落とす刑)五年を言い渡され、道路で清掃の労役に当たっていたんじゃ。

丁度その時曹操が車で通りかかり、彼がどう言う囚徒か尋ねたんじゃ。側仕えの者が事実を答えると、曹操は次のように言ったんじゃ。

「この男は子師(王允の字)の兄の子じゃ。引っかかった事件もおおやけのことにすぎぬ。」

その結果、係官は驍騎主簿に選抜してやった、とあるんじゃ。

この「おおやけ」の意味が良く分からんのじゃが、張郃殿は分かるじゃろうか?

「おおやけ」とは公事のことであろう、なれば制度の問題や、何らかの事件に連座と言う形での罪であって、王淩個人の罪ではないと言うことであろう。さすがに詳細までは分からんがな。

なるほど、それにしても曹操殿の情報収集力は空恐ろしいものがありますな。どこまでの人物を把握していることやら・・・。

さて、その後も王淩は順調に昇進していき中山太守にまでなったんじゃ。すべての任地で治績を挙げ、曹操に召されて丞相の掾属となるんじゃよ。

文帝の治世にて

曹操が亡くなり、曹丕が帝位に就くと散騎常侍に任命され、外に出て兗州刺史となるんじゃよ。

ちなみに曹丕殿が帝位に就くのを勧めるための上尊号碑があるが、そこには王淩の名前はないんじゃよ。

まあ、まだこの時期の彼はまだ魏の重鎮と言うところまでは来ていないからな。将来有望な官吏の一人でしかないから仕方なかろう。

満寵殿の名前も見えていないし、本当に限られた人物のみが名を連ねておるんじゃろうかのう。

どうだろうかな、俺の場合は当時左将軍に任じられて中央にいたからな。おそらくその辺りも関係あるのだろう。実力的に考えれば、例えば満寵殿や郭淮殿なら実力的に自身に劣るはずはないからな。

その後王淩は張遼等と広陵まで赴き、孫権を討伐するんじゃ。長江を前にして夜中大風が吹き、呉の将軍呂範らの船が北方の岸に流れ着いたんじゃ。王淩は他の将軍たちと共に迎え撃ち、敵兵の首を斬ったり捕虜にしたりし、船舶を捕獲したんじゃ。

この手柄により宜城亭侯に取り立てられ、建武将軍の号を加えられ、青州に転任したんじゃよ。

青州での出会い

この当時北方の海岸地帯は動乱の余波を受けて、法律・制度がまだ整備されていなかったんじゃ

この時、王淩はある人物を見出すんじゃ。王基と言い、近年では三国志のゲームでも当たり前のように出てくる人物じゃな。

数値を見ると平均70台と言ったところか、悪くはないがもう少し高い評価であって良いと思うがな。   

さよう、現状ではあまり目立たん能力じゃが、実はこの人物も相当優秀で、後々魏の重鎮となるんじゃよ。

さて、王淩はこの王基を高く評価し、上奏して王基を請い受けて別駕としたんじゃ。後に中央に召されて秘書郎となるんじゃが、王淩は再び彼を帰任させるように要請したんじゃ。

しばらくして司徒の王朗が王基を召し出すんじゃが、それにも王淩は応じなかったんじゃよ。

当時の三公であった王朗殿の招聘も拒絶するとは、相当なほれ込みようじゃな。 

王朗は文書を出して州(王淩)を弾劾するんじゃが、それでも王淩は王朗の要請を無視して応じなかったんじゃよ。

異例の事態ではあったが、王淩は行政を行き渡らせて教化を施し、善行を表彰し悪事を罰し、甚だ規律があったんじゃ。人民は彼を称え、称えても称えきれぬ様子だった、と言うんじゃ。

このやや過剰に思える王淩殿への賛辞だが、やはり王基がそばで協力していたことが大きかったのだろうな。結果的に王基を手元に置いた王淩の判断は間違っていなかった、と言うことだな。

確かに、じゃがちょっとだけじゃが「称え、称えても称えきれぬ」と言う表現は面白いのう。さて、丁度折り返し地点になったことから、今回はここまでじゃな。後半は次回じゃな。次もよろしく頼みますぞい。

 

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