さて、今回紹介する人物は呉脩じゃな。字や生没年は不明、三国志全人名事典では没年が呉脩の場合190年となっておるが、同時期に殺害された人物の没年が不明となっておることから、正しいのかなんとも言えんのじゃよ。
さて、今回は呉脩の紹介じゃな。
彼も聞いたことがない名前ですね。演義には出ていないのではありませんか?
そうじゃな、多分出ておらんじゃろう。後、正史においてもあまり出番はなさそうじゃのう。
どうも、張郃だ。呉脩殿か、確か袁紹殿の下にも来ておったようだがの。
この辺りは張郃殿が袁紹殿に従うようになった時期と少しラグがあるからのう。それでは見ていくとしようかの。
よろしくお願いします。
人物紹介
さて、呉脩の出番は極僅かで、魏書『袁紹伝』のところじゃな。
「将軍は出仕されてから名声を響かせ、天下に重きをなしています。
黄巾の賊が世を乱そうとも、黒山の賊がのさばろうとも、軍勢をこぞって東方へ向かえば(その本拠地)青州を平定することができましょう。引き返して黒山の賊を討伐すれば、張燕を滅ぼすことができるでしょう。
北方へ巡らせば、公孫瓚は必ずや滅亡するでしょう。蛮族を震え上がらせれば、匈奴は必ず屈従するでしょう。
黄河の北方で暴れまわり四州の地域を併合され、英雄の才を持つ人物達を収攬し、百万の軍勢を擁して、天子のみくるまを長安よりお迎えし、天子の宗廟を洛陽に再興して、天下に号令され、それでも服従しない者どもは討伐されますように。
このようにして戦場に臨めば手向かうものなどどこにおりましょうか。数年もたたない内に、難なくこうした功業が樹立されましょう。」と進言したんじゃ。
袁紹は「これこそ、私の思っていたことだ。」と喜び、即刻上奏文をたてまつり沮授を監軍・奮威将軍に任命したんじゃよ。
この沮授殿の進言は本当に時宜に適っており、四州を制圧するまでは彼の進言通りにコトが運んだからな。ただその後の展開が、沮授殿がやりたかったことをまんまと曹操殿にやられてしまったのがいたかったな。
そしてこの時董卓は執金吾の胡母班と将作大匠の呉脩に詔書を持たせ、袁紹の下にやり(服従するように)説得させるんじゃ。将作大匠は宮殿の造営等に係る役職じゃな。
さて、そのように使者に赴いた呉脩じゃが、当然袁紹が聞き入れるはずもなく、彼らは河内太守の王匡によって殺害されてしまうんじゃ。
さて、これにて呉脩の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価に行くぞい。今回はワシのみの評価じゃな。
能力評価
呉脩は将作大匠であったことや、今回使者の役割を任されたことから、政治と知謀を高めの評価としたんじゃよ。
じゃが記述がこれしかなく、他に実績らしい実績もないことから、全体的に抑え目の評価じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、呉脩の能力評価じゃな。基本は文官としての評価じゃな。
ふむ、呉脩殿が来たのは丁度おれが袁紹殿の下に降るかどうかと言うタイミングか。
しかも袁紹さんは下手したら呉脩達に会っていないかもしれない、と言うことですね。
確かに王匡のところで殺害させている、と言うことはその可能性もあるかのう。
しかし使者の二人は気の毒なことだ、ほぼ詰みの状況で交渉役としての役割を担わねばならなかった訳だからな。
そうじゃな。さて、短いが呉脩の紹介は終わりじゃな。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。